2007/10/20
とおくはなれてそばにいて/村上龍
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冷たいシャワーを浴びているうちに脈博と同じリズムで左耳が痛み始めた。さっき頭を打ったせいだろうとニキは思った。部屋に戻るとレダは二人の衣服をきれいに畳んで椅子に置いている。枕は黴臭く、シーツは湿って、レダの足は暖かい。
「抱いてくれないの? こんな部屋じゃいや?」
「疲れてるんだ」
「こんな宿しかないのよ」
「レダと一緒ならいいさ」
「朝まで一緒なんて初めてね」
リオに比べると静か過ぎてニキは眠れなかった。痛みはまだ続いている。
『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』より
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村上龍の『村上龍恋愛短編選集 とおくはなれてそばにいて』を読んだのは、結構むかしです。
まえがきで、村上龍は「それほど多く恋愛小説を書いていないし、恋愛小説と明確にカテゴライズできるような小説も書いてこなかった」と言っているとおり、この短編選集の作品はみな、「恋愛小説と明確にカテゴライズでき」ないものばかりです。
そもそも村上龍に、あまり恋愛小説家というイメージもありませんし。
全体的に、初期の作品のほうがパワーのある彼ですが、この本には初期短編も含まれています。上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』もそのひとつ。
全19編収録されている本作でのお気に入りは、『そしてめぐり逢い』『受話器』『彼女は行ってしまった』『シャトー・マルゴー』上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』などです。
どの作品も、泥臭くて、退廃的にみえます。
『そしてめぐり逢い』の主人公はさまざまな女とセックスし、金もある。しかし高校時代のあこがれの女の子が裏ビデオに出ているのを知って、「がっくり」くる。
『受話器』の女はホテルにデリバリーされるSM嬢で、彼女は自分を「寄生虫のようなものだ」と言う。足フェチの男の口に受話器をつっこんだときに、「音」が聞こえてくる。
『左腕だけは君のもの』の男は、ニューヨークで会った女と関係をもち、写真を撮る。彼女は、「左腕を両手で抱きしめ」ていて、男は左腕だけはその女のものだと、今も思っている。
どの短編も、後味のいいものではないかもしれません。しかしいずれの短編にも共通しているのは、「個人的な希望」のような気がします。希望と呼ぶにはあまりに曖昧な「希望」。
それはジャズであったり、写真であったり、受話器から聞こえる音であったり、一度きりのセックスだったりする。しかし、それらは、この小説のなかではちゃんと機能している。
なぜ、「個人的な希望」なのか。それは彼らが、個人として生きようとしているからかもしれない。あるいはまた、自由だから。
村上龍はここ数年、希望についての小説を書き続けています。
それがすべて成功しているわけでは勿論ないですが、村上龍という、ある意味で「寓話的な作家」の書く物語は、常に時代と呼応しあっていると思います。
そういう意味では、一番成功している作家なのかもしれないですが。
また、この短編選集では、女性がおおきな存在感をもっています。どちらかと言えば、男よりも女のほうがさっぱりしているというか、見ていて逞しいです。
それはこの本の帯に書かれた、「女はセンチメンタルな生きものではない。問題は男の方なのだ」と重なります。
最近の村上龍のパワーは、ちょっと下降しつつありますが、この小説にはまだそれが残っていて、初期のファンの方でも、楽しめるんじゃないかと思います。
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あなたとどこで出会ったのかどうしても思い出すことができない。あなたはわたしに近づいてきて、何か印象的なことを言った。だがあなたが具体的に何を言ったのかは思い出せない。わたしを誰かと間違えたような、おぼろげだがそういう記憶もある。
ただわたしは絵はがきを書いてくれる恋人に子供の頃から憧れていたから、あなたと出会えたことがうれしかった。わたしはあなたからの絵はがきを待つために海の傍に住みたいと思った。(略) その他には何もしないし、友人と長電話することもない。
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