2007/11/04
阿修羅ガール/舞城王太郎
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少なくともまだ、私はアイムプリティファッキンファーフロムOKって感じではない。
私はとりあえず顔射も口の中でドピュドピュゴクンも中出しもプリズンエンジェルも避けられたのだ。
うん、OK。
これまでの人生の中で一番最高の時って訳じゃないし正直辛いけど、でも大丈夫。私はまだまだやってける。
好きじゃない男の人とセックスしちゃうアホな女の子なんて、私だけじゃないはずだし、それどころかこの世にはそんな人が私の想像しているよりももっとずっとたくさんいるはずなのだ。そして、そんな女の子達の中には顔射やら口の中で~やら中出しやらプリズンエンジェルやらの目に遭ってる人たちもたくさんいるんだろう。いや、プリズンエンジェルはなかなかないか。ってそんなことはどうでもよくて、とにかく、私はヤな目に遭ったけれども本当の最悪の目に遭った訳じゃないのだ。
私はまだOK。
こんなところでへこんでたら、実際プリズンエンジェルの人に申し訳ない。
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第16回三島由紀夫賞受賞作。
うえの引用を読んで、なんだこれは! と思ったそこのお前! そうお前よお前。最初に言っておくが、この小説はすばらしい、愛と存在と少女の物語なのだ。舞城王太郎はけっして嫌がらせであのような文章を書いたわけではなくて、ただ女子高生の語りをリアルに近づけるために用いたにすぎない。
実際この語りはよく出来ていると思います。少なくとも、女子高生のしゃべり口調に近いです。
そう、すべては舞城王太郎の狙いにすぎない。
第一部、第二部、第三部からなるこの長編小説は、今まで俺たちが呼びならわしてきた「文学」とは一味も二味もちがいます。
舞城王太郎は、今まで他の作家が置いていった技術を捨て、完全に独自の小説を打ちだしてしまった、稀少な小説家である。
主人公のアイコは、好きでも何でもない佐野とやってしまい、後悔する。
しかも冒頭からいきなりその意を表明し、あまつさえ、アイコにこう言わせている。
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減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
返せ。
とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうものじゃなくて取り返すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。
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ふつう、小説で主人公にこんなことは言わせないと思います。物語が進むにつれて、その意思が示されるのであって、いきなりこんなふうに反省するように描かれた小説は、たぶん初めて読んだ。
舞城王太郎は、いわばそのような小説家である。
「文学」がタブーとしてきたことを平気で冒し、かつそれを成功させた、唯一の作家でもある。
もちろん他の作家(特に年配作家)には、彼を認めないとしている人たちもたくさんいます。しかし、そんな奴らは、何にも読めていない。俺たち一般人が何にもわかっていないから、何にもしないから、わざわざ作家である舞城が俺たちのもとに歩み寄ってきているのです。そんな文学は、今までの日本にはなかった。
アイコは陽治に恋している。知られたくないことを知られて、「バーカバーカ陽治死ね死ねって気分と、もう何でなの陽治?」って気分になるし、「やべー泣きそうだ。泣きかけだ。半泣きだ。ううう、目が熱い」なんてことにもなるし、つまりは「普通の女子高生」なのだ。
舞城王太郎作品に登場するひとびとは、皆ふつうだ。ふつうだからこそ悩むし悲しむし恋するし、人を愛する。
そんなことが、飽きないように、ずらーっと描かれている。「死ね」を連発するあたりは、金原ひとみ作品にも通じるような気もします。
街では「アルマゲドン」が起こったりしている。子供たちが反乱をおこす。
第二部ではへんな森が出てきて、まったく意味がわからない。第三部で、すべての謎がわかる。
全部説明してしまっているのだ。これは何々のメタファで、これはこれの伏線なんですよ、と、アイコを介してさらっと説明してしまう。
文学のタブーを、舞城王太郎は冒している。しかし、それが成功している。ちゃんと「文学」になっている。
すごい。としか言えない。
何がなんだかわからないけどとにかく面白いし切ないしいとおしいのだ。
そう、舞城王太郎はご丁寧にも、俺たちに愛を説いてくださり、そのうえそれをエンターテイメント性の高い話を絡ませて、物語として、純文学として昇華させることに成功している。最後にはすべてを説明してくれる。
それは、ある意味侮辱されていると取れるかもしれない。
説明しなくちゃ解ってもらえない。読んでもらえない。舞城はそう思っているかもしれない。
だとしたら、それは悲しいことだが、それでも俺はすごいと思う。
舞城王太郎は、文章もすばらしく巧いです。
読点が少なくて、読みにくいと思うかもしれないけれど、それは計算された読みにくさなのです。
それにあのスピード。
他の作家には絶対に真似できない。
これを、およびこの作家を認めなかった宮本輝や石原慎太郎は結局、何にも読めていなかったのでしょう。
でも、舞城はあきらかに「新しいこと」をやろうとしている。小説という芸術を壊そうとしている。
詳細なあらすじも経過も説明しません。読んでみてください。
舞城王太郎が、やさしく、朗らかに説明してくれます。
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他人の神様パクんな。
と思ったけど、そもそも宗教なんてパクりばっかなんだった。宗教心そのものもパクりだ。なんか心に穴開いた奴らがあ~やべ~何かに夢中になりて~ってきょろきょろまわり見て、何かよくわかんないけど一生懸命空やら十字架やら偶像やら拝んでる奴らを見つけてあ、あれ、なんか良さげ~とか思って真似すんのが結局宗教の根本。布教ってのはそういうぼさっとしてるわりに欲求不満の図々しいバカを見つけてこれをパクって真似てみたらなんとなく死ぬまで間が持ちますよって教えてあげること。まあそんなふうにパクりでも真似事でも何でも、人の役に立ってたり、少なくとも人に迷惑かけてなかったらなんでもいいけど、猫とか犬とか子供とか殺して、その言い訳に、人からパクった宗教とか主張とかイデオロギーとか使う図々しいバカは死ね。
つーわけでグルグル魔神とか名乗ってる奴も死ね。
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