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Dragon Ash/HARVEST


Dragon Ashというバンドをご存知だろうか。
何年か前までは、オリコンのチャートの上位に常にいた、世間の言うところ「モンスター・バンド」です。ヴォーカルの降谷建志を中心として96年頃に結成されたのですが、彼らがデビューしたことによって、所謂『J-HIP-HOP』が爆発的に日本に広がりました。
というのもDragon Ashは、ミクスチャー・ロック・バンドで、デビュー時はパンクとかハードコアをやっていたのですが、98年頃にHIP-HOPに進出して大成功を収めた、のですが、俺は当時の彼らをあまり好きではないのです。
やっぱり彼らは純粋なHIP-HOPのアーティストではなかったし、ロックと融合したそれは、観客の耳にひじょうに聴きやすかったのです。
HIP-HOPはあまり聴き易すぎても、ちょっと問題です。そもそもがメッセージ性の強いジャンルだし、極めて「社会的な」音楽だと思います。
しかし、いまの日本人の多くは、HIP-HOPに恋愛を絡めた歌を好むのです。別にそれでもいいのですが、何というか、あまりにも気色悪いのですよ。

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一生一緒にいてくれや
みてくれも才能も
全部含めて

愛を持って俺をみてくれや
いまの俺にとっちゃ
お前が全て

一生一緒にいてくれや
ひねくれや意地っ張りなんかいらない

ちゃんと俺を愛してくれや
俺を信じなさい

いつのまにか本気になった俺は
お前の優しさ 強さに惚れた

お前だけは
手放しちゃいけないと思えた
今は 湧いてくる愛しさに
溺れたい

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三木道三の『Lifetime respect』です。
「どこが問題なの?すっごい良い詞じゃん!!」多くの人はこう言うのでしょうが、はっきり言って気持ち悪いです。
ありえません。
ここで歌われているのは、愛じゃない。「愛のようなもの」です。本来すごく曖昧なものを、まっすぐに歌ってしまうことで、何かが決定的に損なわれているような気がします。
Dragon Ashはさすがにこんな歌詞は書きませんが、でも、「Dragon Ash」というバンドが、日本の音楽に与えた影響は強いのです。強すぎて、それによる弊害も多いのです。
たいしたスキルのないMCというか、グループが大勢現れて、もっと重要なアーティストは隠れてしまってる。
話がかなりずれました。
いまのDragon Ashは、もうHIP-HOPではないです。今は、エレクトロニカだったり、ラテンだったりを行き来しているのですが、俺が紹介するこのアルバムは、ジャンル特定がほとんど不可能なように思えます。
いわば、「音楽的な傑作」です。

はっきり言ってしまえば、『HARVEST』というアルバムは、全く歌詞に意味がありません。いや、少なくともあまり重要なことは書かれていないです。
俺には、いまの彼らの曲について説明できるだけの言葉がない。
ただ言えるのは、リズムが素晴らしいということだけです。聴いていて、自然にからだが動いてしまうような、浮かび上がるような、音が体当たりしてくるような、そんなリズムです。

最後に、Dragon Ashが一昨年発表した『夢で逢えたら』という曲の歌詞を引用します。
彼らにしては珍しくラヴソングです。
そして、メロディーもさることながら、歌詞が素晴らしすぎます。
全然、親しまれるような歌詞ではないし、嘘臭い言葉もありません。きっと、彼らは愛の語り方を知っているのだと思います。
興味のある方は、ぜひ聴いてみてください。そこら辺のラヴソングより100倍いいです。素晴らしい「愛の歌」です。

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たとえば今だって そう残した
匂い零れ出して
辿ればすり合って 夜を越した
憩いの漏れを溶かして

ほどけた この手
手繰り寄せて

凍えた頃ね
爪で書いたんだ…夢で逢えたら

(中略)

束ねた思い
奏でた今宵

この胸吹き抜けた
南風を歌おう
月夜に降りつけた光たちの歌を
白く尚

(中略)

狂えるほどの 星空に毎夜
震える頬の少し そばにいたいよ

願いただ…夢で逢えたら

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by 竹永翔一  at 19:05 |  音楽 |  comment (5)  |  trackback (0)  |  page top ↑

「死ぬ」ことは悲しいのか、あるいは「死」はただの概念なのか


かなり長いあいだブログを放置してしまって、申し訳ありませんでした。
本当にずいぶん更新していなかったので、久しぶりに更新します。

皆さん(そんな人たちがいれば)、「人が死ぬ」ということは、一体全体、かなしむべき事柄なのでしょうか。いや、普通に、いつも俺たちの暮らしている世界では、「死」はかなしむべき事柄で、時に尊いものではあります。
しかし、ここ最近ずっと考えているのですが、「死」は本当に「かなしむべき事柄」なのでしょうか。また、「死」とは実在するものなのでしょうか。
ブログでこんな取り留めのないことを書くなんて、ばからしいような気がするのも事実ですが、でも書かずにはいられません。

「死」をテーマにした小説や映画なんて、腐るほどあります。
小説では、あの『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いに行きます』などを挙げる人が多いような気がします。あるいは、高校生などになると『恋空』とかも、「死」を描いた小説ということになってしまうかもしれない。
俺が今まで、生きてきたなかで「死」をちゃんと(?)描いていると思う小説は、いくつかあります。
舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』も、テーマは愛ですが、恋人の「死」が描かれています。
金原ひとみの『アッシュベイビー』も「死」が重要なキーワードだし、庄司薫の『白鳥の歌なんか聞こえない』もそう。江國香織の『落下する夕方』で描かれていた「死」も印象的でした。
で、思うに、俺がいま挙げた小説と、世間の人たちが思う「死」が描かれている小説というのは、全く断絶されたもの、意味の違うもののような気がします。
「死」とは、大切な人(友人でも、身内でも、恋人でも)が死んでしまうことだけにある概念なのでしょうか。
俺は、はっきりと、「それは違う」と言い切ってみましょう。
人の死ぬことが描かれている小説が、「死」について描かれた小説ではないです。『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いに行きます』は、作中で誰か死ぬけど、でも彼らは本当の意味では死なない。必ず、誰かがその人を覚えていようとする。別にそれ自体はいいのですが、残念ながらこれらの作品には、端から誰も存在していないのです。『世界の~』の主人公のサクも、アキも、小説のなかにちっとも存在していないのです。と、断言してみたのですが、俺は本気です。『世界の~』にも『いま~』にも、誰もリアルな人間なんていません。なぜなら彼らは「死」について何も考えてないから。そもそも作品に「死」なんて描かれていないから。
作中の人間たちは皆、ヒロインの死を悲しむ。悼む。それは悲しむべき(!)事柄だからだ。
いやいや本当かよ、と、誰も待ったをかけない。
それは本当にかなしむべき事柄なのでしょうか。

自殺は、最近流行ってますよね。「流行ってる」なんてちゃらいものじゃないですが、自殺者が急増しています。
自分で自分を殺す彼らは、果たして悼まれるべき存在なのでしょうか。自殺をもう否定できません。そんなこと俺にはできません。
しかし、俺が不思議に思うのは、死んだ当人たちより、残された人たちのことです。彼らは皆こぞって悲しむし、泣く。もう一度会いたいという。会って話がしたい、と。
もちろん普通に正常な感覚だと思うのですが、俺はたまにそういう人たちを、とても気色悪いと思ってしまいます。
「なーんで、皆泣いてるわけ? 誰も笑ったり、誉めたり、しないのか?」なんて思う俺は、あまりにも文学に影響を受けすぎているか。
実際、死を語ろうとした俺がバカでまぬけなのですが、なぜ人はこうも、死を崇高したり、恐れたり、できるのでしょうか。なぜ、「死」なんて存在しない、と言えないのでしょうか。その可能性はゼロなのでしょうか。
俺にはわからない。わからないから書いてる。
文学において「死」は、何か美しいものだったり、脅威だったり、恐怖だったりするけど、小説家たちは果たして「死」を信じているのでしょうか。
「死」とは、何でもいいです。概念としてでも、実在としてでも、哲学としてでも、構いません。
本当にそんなものがこの世にあるのでしょうか。
って、何だか宗教っぽくなってきたような気がします。
俺にいま辛うじて言えるのは、芸術としての「死」と、現実の「死」は繋がってる、としか。
同じではないと思います。ただ、ふたつは絶対に繋がってるはずです。
「死」は語られるべきものなのか。いや、語れないから、芸術があるんでしょうね。芸術が現実とリンクしているものでなくてはならないなら、一概に「死」を語るなんて、不可能なのでしょう。
こんなこと書こうとした俺がバカでした。すみません。

それで、いま唐突にわかったような気がするのですが、「死」と「人間」は元来切り離されているのではないでしょうか。つまり、人間が「生きていること(これはそのまま「死にゆくこと」に置き換えられる)」と、生きている「わたし」は、全く別次元に存在しているのでは…………。
これは全く間違いかもしれません。
正解ではないでしょう。
もう、最初に書こうとしたこととは全く違うことばかり書いてしまってます。
やはり、言葉は難しいです。
言葉があるうちは、何とか生きているのかもしれない。言葉があるうちは、俺たちは少なくとも、存在しているのかもしれない。たとえ「死」が現実になくても。
by 竹永翔一  at 01:43 |  雑記 |  comment (4)  |  trackback (0)  |  page top ↑