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ここ10年くらいの村上龍について


村上龍。
この名前から、何を連想するだろうか。初期村上龍のファンは、「セックスと暴力とドラッグの作家」というイメージで定着していると思う。
俺もそういうイメージを持っています。

『限りなく透明に近いブルー』で、第75回芥川龍之介賞を受賞し、一躍流行作家となった彼は、その後すばらしい作品を世に出してきました。
『コインロッカー・ベイビーズ』はとんでもない傑作ですし、『69』もそう。『悲しき熱帯』『ニューヨーク・シティ・マラソン』『イビサ』など、隠れた傑作も多いです。
最近では『村上龍映画小説集』『五分後の世界』『ラブ&ポップ─トパーズ2─』なども秀作といっていいと思います。

80年代、村上春樹とともに「W村上」と言われ、二人揃って爆発的な人気を誇りました。今でも、この二人の著作は最低でも10万部ちかく売れています。
春樹さんと龍さんどちらが良いかと聞かれたら、「村上龍だね」と俺は答えるでしょう。
「ただし、90年代前半までのね」そう付け足しますが。
『イン ザ・ミソスープ』以降の村上龍(90年代後半)と村上春樹どちらが良いかと聞かれたら、「村上春樹だね」と答えるでしょう。
「村上龍がだめな訳じゃないけど、現状から言えば、春樹さんのほうが良いよ」と。
もちろんそれ以前の村上春樹もすばらしいですが、どちらか選ばなければならないなら、俺は村上龍です。
しかしいまの彼は、果たして「良い作家」なのでしょうか?

村上龍のファンだと公言してデビューした作家も少なくないはずです。
その最たる存在として、山田詠美がいます。彼女もまた、「女・村上龍」と言われ、作風、過激な発言などで圧倒的人気を得ました。
彼女自身、エッセイでは村上龍を誉めており、「彼となら一発やってもいい」という名言まで残しています。

そんな山田詠美が、つい最近、河野多恵子との対談でこんなことを言っていました。
「私の嫉妬の対象である作家は村上龍さんです。でも、『イン ザ・ミソスープ』以前の彼にですけども。それ以降の彼には、敬意は払うけれども、嫉妬の対象ではないです」
正確ではないですが、こういう事を言っていました。
つまりこれは、最近の村上龍にはあまり魅力がない、少なくとも昔ほどは。という意味じゃないでしょうか。
また、金原ひとみも村上龍のファンであることを公言してデビューした作家です。彼女は、『コインロッカー・ベイビーズ』に衝撃を受けたといいます。新装版『69』では、あとがきも書いています。
村上龍も、『蛇にピアス』が芥川賞をとったとき、もっとも受賞に加担しました。
しかし最近の金原ひとみは、村上龍のことを話題にもしません。

俺個人から言うなれば、最近の村上龍は、ちょっとおかしいと思う。もちろん16歳のガキの言うことですから、俺自身がまちがってる可能性のほうが大きいです。
しかし、今の村上龍には、さして魅力を感じない、もっと言えば「どこがいいの?」と言ってしまうんです。
『イン ザ・ミソスープ』という作品を読めばわかるでしょうが、村上龍には「いい時」と「わるい時」があり、この作品はあきらかに後者です。
まず、描写が説明文のようで、やや説教臭いです。そして、ただ現実の悲惨さをなぞっただけのような風に感じられます。
正直、『コインロッカー・ベイビーズ』や『69』のときにあった興奮が、最近の作品には感じられないのです。
『希望の国のエクソダス』もそうですが、中学生何万人がいっせいに不登校になって企業をたちあげて成功する、という設定は、あまりにも現実味を欠いており、ややライトノベルに近いような気もします。
そして、やたら記号的にすぎる。
記号的というのは、初期の作品にも表れています。
『限りなく透明に近いブルー』がそうですし、『コインロッカー・ベイビーズ』もそうです。
しかし、これらの作品には、今までの日本にはなかった「何か」があるように思うのです。その「何か」が何なのかはわかりませんが。
今の村上龍は、初期と比べたら、あきらかに劣化しているように思います。
そりゃあ作品を書くうえで「良さ」やある種の「瑞々しさ」は失われるのでしょうが、それにしたって、30年も第一線で活躍する作家が、『イン ザ・ミソスープ』のような、あまりにもお粗末な描写をするでしょうか。

本当に残念でなりません。
山田詠美も初期とは大分作風がかわりましたが、それでも彼女は往年の「良さ」をかたちを変えながら維持していると思います。
村上春樹にしたってそうです。

それよりも、高橋源一郎や笙野頼子のように、いまなお進化し続けている作家もいます(売れてないけど)。村上春樹も、ある意味進化し続けているのかもしれません。

ここ最近の村上龍は、作品を何本も掛け持ち連載したり、政治的な発言が多いですね。
政治的な発言は良いとしても、その内容は、ほかの専門家・評論家がすでに指摘していることを言っているだけではないでしょうか。
「失われた十年」にしたってそうでしょう。
社会学者の宮台真司は、村上龍を「記号に狂っている」と批判しています。

村上龍の政治的発言は、もちろん正しいものが多いと思います。
一方で、日本のもつ属性に対して、あまりにも辛辣に過ぎる気もしないでもない。
たしかに俺も村上龍に近い発想があるように思います。俺も「日本的なシステム」は大嫌いです。
それを排除しようという気持ちもわかりますが、いまさらそんな事ができるのか。特に作家という、実はあまり力がない人種が、声高に叫んだとしても、それを日本中にとどろかせるには、遠く及ばないと。
日本は「日本的なシステム」に甘んじてきた国です。そして大人たちの多くは、いまだにそれを信じている。それは子供にも多いかもしれない。
作家だったら、「そこから始めようよ」というスタイルで、文学的処置をとるべきなのに、村上龍はあまりにも直接的すぎます。

正直、いまの作家・村上龍には疑念を感じずにはいられません。
彼のやっていることは間違ったことではないでしょう。しかし、文学者としては、いささか軽すぎるような気がしてなりません。

初期のころのような良さを! とは言いませんが、作家として、やるべきことをする必要があると、無礼にも思ったのでした。

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by 竹永翔一  at 22:25 |  雑記 |  comment (5)  |  trackback (0)  |  page top ↑

暗渠の宿/西村賢太



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都電の線路を足ばやに横ぎり、ガード下をぬけたところでもう一度振りむいてみたが、それと気になる人物や車両はなかった。根が小心者にできてるだけ、最後に吐き残した暴言のことで連絡を受けたその店の者が追っかけてきはしまいかとヘンに気にかかったものだが、どうやら杞憂のようであった。それでやっと日常に立ち戻った思いになり、すでに閑散とした駅前からのだらだら坂を地下鉄の入口にむかってのぼりながら、私はしみじみ女が欲しい、と思った。

『けがれなき酒のへど』より

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西村賢太の『暗渠の宿』を読みました。
非常にばかばかしい話が二編、収録されています。「ばかばかしい」というのは、でもこの場合ほめ言葉です。ばかばかしく素晴らしい作品集でした。

うえの引用を読めばわかるとおり、文体がものすごく近代文学の影響をうけています。自分の恋人を「女」「私の女」と言ったり、台詞が「しかし何だぜ……」など、かなり近代文学を意識していることがわかります。
西村賢太は、2004年に『文學界』からデビューしたのですが、今時の新人がこのての文体を使うということは、あきらかに近代文学に傾倒しているんでしょう。
事実、作品中でもその近代文学オタクっぷりが発揮されてます。

主人公はいつも同一人物で、つまりは私小説です。俺はあまり近代文学が好きではないし、私小説もそんなに読んでこなかったつもりですが、西村賢太はすばらしい私小説作家、いや、本の帯で豊崎由美が言っているように「全身私小説家」です。

主人公の「私(=西村賢太)」は、ものすごく情けない男です。恋人はなかなか出来ず、出来ても暴力をふるって暴力をあびせたり、特に食べ物の場面でよくカタストロフが生じます。問題になるのが常に金のことだというのも可笑しいですし、恋人の父親からも借金をしていると、作中では述べられています(どこまで本当か怪しいものですが)。
「私」は、藤澤清造という大正期の作家に傾倒しており、彼の「没後弟子」とまで自称しています。「私」はその藤澤清造の全集をつくろうと資金繰りをしているが、なかなか貯まらない。資金を預けている古本屋の主人に勝手に使われたり、女のために使ったりと、むしろ減っているみたい。
ちなみに西村賢太自身も、藤澤清造の全集を刊行しようと資金繰りをしています。

『けがれなき酒のへど』では、なかなか恋人ができず、風俗で性欲の処理を行っていた「私」が、ある日タイプの風俗嬢に出会い、その彼女に騙されて捨てられるまでの過程を描いてますが、捨てられることが最初からわかるように書かれているところが、近代文学的です。
それでもって、この主人公の情けなさはより顕著になるのがわかって、非常に楽しめます。

『暗渠の宿』では、「私」にやっと恋人ができ、その恋人と同棲するのですが、ある突発的な出来事から彼女に暴力をふるってしまう。それがどんどん加速していく話ですが、最後の一行はすばらしく情けないです。

もう一度言いますが、西村賢太の書く小説はすべて私小説です。しかもほぼ自分のことを正確に書いている作家。
それを踏まえてみても、人間としてここまで最低な奴がいるのかと、やや心配にもなりますが、やはり、可笑しいのです。
情けない男が女を得るための努力話と、情けない男が女を得てからの堕落(?)を描いたこの作品集は、いままで読んだ私小説のなかでもトップクラスの面白さです。

21世紀にもなってこんなことをやっている西村賢太もすばらしいですが、何よりまず、作品の端端から、藤澤清造に対する愛着が垣間見えて、可愛らしくもあるけど、次の瞬間一気に脱力する。
そんな男の話です。

西村賢太はこんな時代錯誤なことをしてまで、なぜ私小説を書くのでしょうか。それは、小説にどっぷりと浸かり、そこから上がれないからなのでしょうか。

でもとにかく、ばかばかしいことこの上ないこの小説は、すばらしい出来なのでした。

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初め、これにも文句は言うまいと努力し、二口、三口と啜り込んでみたが、その食えぬ程ではないにしろ、決して納得のゆくものではない面白くなさは、何から何まで私の言に背いたこの女への怒りの感情に同化し、そこへよせばいいのに女が、「どう?」なぞ、何か褒め言葉を期待するような口調で聞いてきたのがたまらなく癪にさわり、つい反射的に箸をどんぶりの中に放ると、
「どうもこうも、あるもんか」と、言ってしまった。
「え」
「まずい」
「えっ、まずかった?」
「ああ、まずいよ。まず過ぎて、お話にならないね。誰がこんなにくたくたになるまで煮込んでくれと頼んだんだよ。ここは養老院の食堂じゃないんだぜ。おまえはぼくの言うことを何ひとつ聞いてやしないんだな。固めにしてって言ったろうが!」

『暗渠の宿』より

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by 竹永翔一  at 11:29 |  書評 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑