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ポンヌフの恋人/レオス・カラックス監督作品


監督・脚本/レオス・カラックス

主演/ドニ・ラヴァン ジュリエット・ビノシュ


レオス・カラックス監督の、『ポンヌフの恋人』は知っている人も多いかもしれない。フランスの映画監督であるカラックスは、デビュー時「ゴダールの再来」と謳われた監督です。映像と映像にある「溝」が、なんともいえない。
彼のデビュー作『ボーイ・ミーツ・ガール』はすばらしかった。
難解で、せりふが極端に少なく、80年代の映画なのにモノクロなのですが、ものすごく映像が綺麗でした。それに、モノクロにしたことで、却って古さを感じさせず、新鮮な印象を与えていると思いました。『ポンヌフの恋人』も例外ではありません。

この『ポンヌフの恋人』は、カラックスの青春三部作の完結編で、主人公は一貫してドニ・ラヴァンが演じています。彼の野暮ったい表情や演技は、とても演技っぽくなくて、逆にすばらしい。
恋人役のジュリエット・ビノシュも、非常に独特な美しさを放っています。
二作め以降、カラーの作品ばかりですが、古さはちっとも感じませんでした。カラックスは普通の監督とは違い、型にはまった撮り方をしない監督だと思います。
カメラが思いきり手ぶれでぶれているシーンも多く、視点があちこち行ったり来たりをくり返す。なんとなく、岩井俊二を彷彿とさせる撮り方だと思いました。
あらすじやストーリーは、説明しません。優れた小説に解説が不要なのと同様、優れた映画に説明はいりません。
ただ、観てください。
俺たちが、「いま生きている」、ということを思い出させる映画です。

カラックスはこの映画の制作に10年程かかったと言っています。
総制作費14億円のこの作品は、そこら辺のハリウッド映画よりもとてつもなく地味で(本当はちっとも地味じゃない。ある意味、すごく派手です)、しずかで(花火の音や音楽が非常にすばらしい)、狂気的ですが、それもまた、カラックスが「ゴダールの再来」と言われる所以ではないでしょうか。


ただの純愛映画ではない、ただならぬ「生臭さ」を、強く感じさせる映画だ、と思います。
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by 竹永翔一  at 00:57 |  映画 |  comment (4)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ケータイ小説と文学

先週だったか、NHKの番組「ETV」で、ケータイ小説の特集が組まれていた。
何故いま、ケータイ小説が女子高生にウケているのかを、写真家で随筆家の藤原新也が迫る、といった内容でした。
俺はつくづく悲しい気持ちになりましたが、一方で、ある意味で納得もしました。
ケータイ小説家たちは皆、自分の実体験あるいは想像を、サイト上に綴る、といった方法で作品を公開しています。
人気のある作品は、書籍化され、うまくいけば『恋空』みたいに映画化されます。

ケータイ小説家たちは皆、年齢が若く、十代が圧倒的に多いです。
文学の世界も、いまや十代でデビューする人たちがたくさんいます。

まず、その十代の新人作家の登竜門的な存在として、「文藝賞」があります。
2001年に、綿矢りさが『インストール』で史上最年少17歳でデビューし、その後2003年に羽田圭介が同じく17歳で『黒冷水』で、2005年には三波夏が『平成マシンガンズ』により、なんと史上最年少15歳で、綿矢りさ、羽田圭介の記録を破りデビューしました。
また、「すばる文学賞」からも、2003年に金原ひとみが19歳で、『蛇にピアス』でデビュー。
その内、綿矢りさと金原ひとみは、それぞれ最年少で芥川賞を受賞し、一気に知名度をあげました。

このように、十代でもじゅうぶん、文学賞からデビューできるのに、なぜ「ケータイ小説」なのか。

理由は簡単で、「手っ取り早く手軽に書けて、かつ多くの人に読んでもらえる可能性があるから」です。
確かに、成功すれば利益は大きいでしょう。もちろん必ずしも、ケータイ小説家が読んでもらおうという意識で書いているわけではないようです。
Chacoというケータイ小説家は、最初はそれまでの出来事を振り返るために書いて、出来上がったら削除するつもりだったのだという。しかし、いつのまにかその話が爆発的人気をよび、あとに引けなくなったと言います。

この話からもわかるように、「ケータイ小説を書く」ことは、リスクを負わずにすみます。
お金もかからず、すんなり小説を世に出すことができる。
しかし、残念ながらほとんどのケータイ小説は、個人的にいえば、駄作ばかりです。

実体験を元にした話なら、まだ許せます。しかし、そうじゃない作品は、あまりにお粗末すぎるような気がしてなりません。そもそも実体験を元にした小説も、お粗末すぎる。
『恋空』などその典型です。
こんなことを書くのは、お門違いもいいとこだろうとは思います。しかし、俺はどうしても、いま売れているケータイ小説が許せないのです(この時点で俺はおそらく間違っています)。

サイト上で人気のある作品が書籍化されて売れるのは、当然だと思うのです。
リスクを負わずに、なんの難点も気にせずに本が売れる。
俺は小説家でもないのに、やたらむかつきます。
なぜ、文学賞からデビューした若い作家(少なくとも、ある種の「リスク」を負った人たち)の小説は、女子高生たちに注目されないのでしょうか。
注目されたとしても、ほとんど大人にばかり注目されます。

金原ひとみは、こういう事態についておもしろいことを言っています。
ちょっと引用します。

──────────

私自身、デビュー前から、お金が発生しない形では小説は出したくないと思っていました。自費出版とか、とても流行っていますけれど、それでは意味がないと。そんな事をするくらいだったら、一人で書いて一人で推敲して一人で読んでいたいと思うんです。

『野生時代』9月号より

──────────

これはつまり、リスクを負うことが大事なのだということです。
そして、大概のケータイ小説はハッピーエンドで、結果的に、ある種の「癒やし」をもたらします。俺は本当に、びっくりしてしまいます。
なぜみんな恋人を(あるいは友人を)殺して、でも私は頑張って生きるよ。あなたの分まで精一杯生きるからね。と、なぜそんな結末になってしまうのでしょうか。
なぜ、主人公たちを生かそうとするのでしょうか。
俺には意味が分からない。

金原ひとみはまた、こうも言っています。

──────────

だいたい、なんで小説なんかで癒されなくちゃいけないの

──────────

全くそのとおり。小説だけでなく、映画や音楽でも、「癒されなくちゃいけない」ものばかりが先行しているようです。
ばっかみてぇ。まじでどうかしてる。

小説は、そもそも物語は、だれかを癒すための代物ではない。いや違うかもしれないけど。
「癒やし」がある物語も、すばらしいものがたくさんあるはずです。
たとえば、舞城王太郎という小説家。
彼なんかは、最後の最後でものすごく癒されます(例外はありますが)。それまで暴力的だったり暴走していた話が、急に着地するような感じ。
それでも、俺は彼の小説が好きです。
また、よしもとばななという作家。
俺は彼女の小説は好きではありませんが、うまいなあ、とは思います。少女漫画的な雰囲気なのですが、それをちゃんと「小説」として昇華させている、稀有な作家です。

「癒やし」を目的とした小説があってもいいです。しかし、いかんせんケータイ小説は、あまりにも取って付けたような、ご都合主義的な「癒やし」ばかりじゃねえかよ。
舞城王太郎やよしもとばななが優れているのは、その物語にあった、うまい着地点=「癒やし」を捻りだしているからで、とても自然です。
読んでいて、少なくとも、癒されます。癒やしの種類はちがえども。

ケータイ小説は、そのような着地点をいっさいかえりみず、こうすればウケるな、とか、こういう結末だったら良い感じだな、というただの「定番」にはまっている。もちろん例外も少なからずあるでしょう。ケータイ小説で「文学」をやろうとしている人たちもいるはずです。
でも、そういう人は全く注目されない。

俺は「文学」が偉いとか、ケータイ小説よりも上だ、と言いたいわけではありません。
ケータイ小説というひとつの「手段」も、否定はしません。
ただ、あまりにも、型にはまりすぎているということが言いたいだけです。
たしかにケータイ小説は、そこら辺の小説家の描く十代より、確固たる空気があると思います。
でも、それだけじゃん。

もし、文学が描いてきた「どうしようもないこと」や「救いのないもの」が、ケータイ小説に不要ならば、俺はケータイ小説を断絶し続けます。

最後に、この記事を読まれて不快になられた方がいらっしゃったら、謝ります。
すみません。

これは今、現時点での俺の気持ちにすぎませんから、できればスルーしていただきたいところです。
by 竹永翔一  at 00:36 |  書評 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑