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阿修羅ガール/舞城王太郎


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少なくともまだ、私はアイムプリティファッキンファーフロムOKって感じではない。
私はとりあえず顔射も口の中でドピュドピュゴクンも中出しもプリズンエンジェルも避けられたのだ。
うん、OK。
これまでの人生の中で一番最高の時って訳じゃないし正直辛いけど、でも大丈夫。私はまだまだやってける。
好きじゃない男の人とセックスしちゃうアホな女の子なんて、私だけじゃないはずだし、それどころかこの世にはそんな人が私の想像しているよりももっとずっとたくさんいるはずなのだ。そして、そんな女の子達の中には顔射やら口の中で~やら中出しやらプリズンエンジェルやらの目に遭ってる人たちもたくさんいるんだろう。いや、プリズンエンジェルはなかなかないか。ってそんなことはどうでもよくて、とにかく、私はヤな目に遭ったけれども本当の最悪の目に遭った訳じゃないのだ。
私はまだOK。
こんなところでへこんでたら、実際プリズンエンジェルの人に申し訳ない。

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第16回三島由紀夫賞受賞作。

うえの引用を読んで、なんだこれは! と思ったそこのお前! そうお前よお前。最初に言っておくが、この小説はすばらしい、愛と存在と少女の物語なのだ。舞城王太郎はけっして嫌がらせであのような文章を書いたわけではなくて、ただ女子高生の語りをリアルに近づけるために用いたにすぎない。
実際この語りはよく出来ていると思います。少なくとも、女子高生のしゃべり口調に近いです。
そう、すべては舞城王太郎の狙いにすぎない。

第一部、第二部、第三部からなるこの長編小説は、今まで俺たちが呼びならわしてきた「文学」とは一味も二味もちがいます。
舞城王太郎は、今まで他の作家が置いていった技術を捨て、完全に独自の小説を打ちだしてしまった、稀少な小説家である。

主人公のアイコは、好きでも何でもない佐野とやってしまい、後悔する。
しかも冒頭からいきなりその意を表明し、あまつさえ、アイコにこう言わせている。

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減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
返せ。
とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうものじゃなくて取り返すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。

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ふつう、小説で主人公にこんなことは言わせないと思います。物語が進むにつれて、その意思が示されるのであって、いきなりこんなふうに反省するように描かれた小説は、たぶん初めて読んだ。
舞城王太郎は、いわばそのような小説家である。
「文学」がタブーとしてきたことを平気で冒し、かつそれを成功させた、唯一の作家でもある。
もちろん他の作家(特に年配作家)には、彼を認めないとしている人たちもたくさんいます。しかし、そんな奴らは、何にも読めていない。俺たち一般人が何にもわかっていないから、何にもしないから、わざわざ作家である舞城が俺たちのもとに歩み寄ってきているのです。そんな文学は、今までの日本にはなかった。
アイコは陽治に恋している。知られたくないことを知られて、「バーカバーカ陽治死ね死ねって気分と、もう何でなの陽治?」って気分になるし、「やべー泣きそうだ。泣きかけだ。半泣きだ。ううう、目が熱い」なんてことにもなるし、つまりは「普通の女子高生」なのだ。
舞城王太郎作品に登場するひとびとは、皆ふつうだ。ふつうだからこそ悩むし悲しむし恋するし、人を愛する。
そんなことが、飽きないように、ずらーっと描かれている。「死ね」を連発するあたりは、金原ひとみ作品にも通じるような気もします。
街では「アルマゲドン」が起こったりしている。子供たちが反乱をおこす。
第二部ではへんな森が出てきて、まったく意味がわからない。第三部で、すべての謎がわかる。
全部説明してしまっているのだ。これは何々のメタファで、これはこれの伏線なんですよ、と、アイコを介してさらっと説明してしまう。
文学のタブーを、舞城王太郎は冒している。しかし、それが成功している。ちゃんと「文学」になっている。
すごい。としか言えない。
何がなんだかわからないけどとにかく面白いし切ないしいとおしいのだ。
そう、舞城王太郎はご丁寧にも、俺たちに愛を説いてくださり、そのうえそれをエンターテイメント性の高い話を絡ませて、物語として、純文学として昇華させることに成功している。最後にはすべてを説明してくれる。
それは、ある意味侮辱されていると取れるかもしれない。
説明しなくちゃ解ってもらえない。読んでもらえない。舞城はそう思っているかもしれない。
だとしたら、それは悲しいことだが、それでも俺はすごいと思う。

舞城王太郎は、文章もすばらしく巧いです。
読点が少なくて、読みにくいと思うかもしれないけれど、それは計算された読みにくさなのです。
それにあのスピード。
他の作家には絶対に真似できない。

これを、およびこの作家を認めなかった宮本輝や石原慎太郎は結局、何にも読めていなかったのでしょう。
でも、舞城はあきらかに「新しいこと」をやろうとしている。小説という芸術を壊そうとしている。

詳細なあらすじも経過も説明しません。読んでみてください。
舞城王太郎が、やさしく、朗らかに説明してくれます。

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他人の神様パクんな。
と思ったけど、そもそも宗教なんてパクりばっかなんだった。宗教心そのものもパクりだ。なんか心に穴開いた奴らがあ~やべ~何かに夢中になりて~ってきょろきょろまわり見て、何かよくわかんないけど一生懸命空やら十字架やら偶像やら拝んでる奴らを見つけてあ、あれ、なんか良さげ~とか思って真似すんのが結局宗教の根本。布教ってのはそういうぼさっとしてるわりに欲求不満の図々しいバカを見つけてこれをパクって真似てみたらなんとなく死ぬまで間が持ちますよって教えてあげること。まあそんなふうにパクりでも真似事でも何でも、人の役に立ってたり、少なくとも人に迷惑かけてなかったらなんでもいいけど、猫とか犬とか子供とか殺して、その言い訳に、人からパクった宗教とか主張とかイデオロギーとか使う図々しいバカは死ね。
つーわけでグルグル魔神とか名乗ってる奴も死ね。

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by 竹永翔一  at 15:50 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

溺レる/川上弘美


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「モウリさん何から逃げてるの」逃げはじめのころに聞いたことがあった。モウリさんは首を少しかしげて、
「まあ、いろんなものからね」と答えたのだった。「中ではとりわけ、リフジンなものから逃げてるということでしょうかねえ」
「リフジンなものですか」ぽかんと口を開けてモウリさんを仰ぎ見ると、モウリさんは照れたように目を細め、何回か頷いた。
「リフジンなものからはね、逃げなければいけませんよ」
「はあ」
「コマキさんは何から逃げてるんですか」

「溺レる」より

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第11回伊藤整文学賞、第39回女流文学賞受賞作。

この本を読んだのは、去年ですが、いまだ印象に残っています。川上弘美はひらがなと漢字とカタカナの使い方が半端じゃなくうまいですね。
表題作をふくめた全八編からなる短篇集です。

『センセイの鞄』を読んだときも思いましたが、川上弘美の小説の人物たちはいつも何かを食べている。
「さやさや」の主人公と男はむやみにしゃこを食べ、「百年」の主人公は寿司屋のおやじが困ってしまうほどシンコばかり食べる。食べる。食べつづける。後者の場合は心中まえのやけ食いとも言えますが。しかし何か動機があって食べているわけではないらしい。楽しんでいるとも思えないし、ただ黙々とシンコならシンコにのめりこむ。シンコを食べつづけることで、それ以外のことを忘れられるわけだろうか。
つまりは、逃げるために食べる。
この短篇集の男女は、逃げている者たちが多い。しかも、「カケオチ」とか「ミチユキ」とかみたいに色っぽいものではない。「無名」の男女のように死後500年たっても逃げ続けている奴らがいると思えば、今から逃げだそうとする奴らもいる。いろいろだ。
逃げるとは、はたして何からか。それは世間からだ。そこから、彼らはどこまで行けるのか。
それだけだと、ありきたりなつまらない小説だと思うでしょう。

「さやさや」の男女はしゃこを食い終わったあと、「人家もなくなり電信柱も稀になった」夜道を、とぼとぼ行く。
「七面鳥が」の男女は、オクラとめざしとホルモン焼きかなにかでいっぱい呑んで、店の外に出て歩く。その場所は「夜が、暗い。こんなにも暗い土地だったろうか」。
とりあえず、暗い場所に行く。しかしまだこれからだ。行きずりの不動産屋でみかけた「四畳半トイレ・歩五分・新築・一万五千」のアパートやら、10分おきにぐらぐら揺れる線路沿いの部屋やら、さらに向こうには高速道路の横転事故でオシャカになったり、日本海の自殺名所からのとびおり自殺で一抹の最期がある。
逃亡のはて、死がある。
暗いが、男女はそれなりに楽しくやっているかもしれない。
世間の責任や義務から逃亡していて、暇がありあまっている。だから、真っ昼間からそれ一間しかない安アパートの日当たりのいい六畳間で「溺レる」。「アイヨクに溺レる」。
まあ、溺レるのは食べるのと同じような、そういうものなので、あまり良いもんじゃないけれど。
しかしある瞬間に、パッと明かりが射したりする。
ただの明かりではない。世間の裏側にいて初めてみることができる、普通ではない、ちがう明かりである。
彼らはもう、帰ることができないらしい。

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「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」
「帰れないかな」
「帰れないなぼくは」
「それじゃ、帰らなければいい」
「君は帰るの」
「帰らない」
モウリさんといつまでも一緒に逃げるの。
その言葉は言わないで、モウリさんに身を寄せた。モウリさんは小学生みたいになって泣いていた。

「溺レる」より

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もう帰ることの出来ない場所にいるのだ。この短篇集の男女は子供みたいである。大人になることから、逃げたい。そう感じているようにみえる。
それから、男に誘われて女は逃げる。
きれいな女ではない。つまらない女とだ。ある女は「おおかたの人から、あんたと居るのはつまらない、と言われた」り、別の女は、男が部屋に帰っても「部屋の中の電気はついておらず、畳にじっと座ったり寝そべったりしたまま、本を読むわけでもなく仕事をするわけでもなくものを食べるわけでもなく、いちにち茫然と過ごして」いるらしい。

ちょっと、内田百間を思いだす。なんでだかわからないけれど。

彼女たちは皆、男とともに「溺レ」ていく。つまらない女と一緒にいると、帰れなくなるらしい。
幸運なことに、これらは小説の中の出来事であり、またあるいは、小説そのものが出来事でもある。
逃げることは帰る場所をうしなうことなのでしょうか。
それかいっそ、「アイヨクに溺レ」たほうがいいのでしょうか。
それもまた、この小説のなかの彼らの人生です。

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僕は虫が食えなくてさ。トキコさん、虫はどう。トキコさん、七面鳥飼うの、やめろよ。飼うなら文鳥がいいよ。トキコさん、また酒飲みたくなってきたな。トキコさん、僕は眠たくなってきた、もう帰ろう。もう帰って、眠ろう。うん、うん、とわたしは頷いた。足は鉛のように重く、わたしもハシバさんも歩いているのにほとんど進まない。とりとめもなく、わたしたちはどこかに向かって歩いてゆく。おそろしい、おそろしい、と思いながら、どこやらに向かって、歩いてゆく。

「七面鳥が」より

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by 竹永翔一  at 14:21 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

PiCNiC/岩井俊二監督作品


監督・脚本/岩井俊二

主演/Chara 浅野忠信 橋爪こういち


岩井俊二監督の『PiCNiC』を観ました。同監督の映画を観るのは、『花とアリス』『リリイ・シュシュのすべて』に続いて三回めです。いやはや、何と言っていいのか、やばかった、としか言えない。何がやばかったかは、ここでは言えない。観てほしい。意味が分からないというかもしれませんが、それでも観るべき映画だと思います。
勿論、強要はしませんが。

岩井俊二は天才です。作家として小説も何作か出したりしているらしいですが、少なくとも映画監督としては天才的に巧いです。

まず、その映像。
冒頭、老人らしき人物が道路に薔薇をいっぽんいっぽん置いていくシーンから始まる。その薔薇を車が踏みつけ、精神病院らしき施設に入っていくシーンへとかわる。
このシーンも、いろんな意味ですごいなあ、と思います。
(たぶん)主人公であるココは、ふたごの妹を殺して、この施設に収容されることになった。彼女はそこで、ツムジとサトルという青年と出会い、世界の滅亡をみにいくために、塀の外には出られないので塀のうえを歩いて、ピクニックに出かける。
概要を説明したらこんな感じでしょうか。たったこれだけの映画なのですけど、何なんだろうこの悲しみは。
この映画から印象にのこったシーンを選ぼうとすると、もう数えきれません。それくらい、この映画は「映像」として優れています。
ココが塀のうえを走ったりする場面でさえも素敵です。教会の牧師との出会い。世界の滅亡をみにいくことを決めたシーン。サトルの死ぬ場面。雨の場面。そして最後の場面。
何なんだろ、この美しさは。美しいだけじゃなくて、映像の端々から奇妙なものが垂れ流されているようです。
ツムジは自分の殺した小学校の担任の幻覚に毎晩悩まされており、その担任が出てくるシーンは秀逸である。すばらしくグロテスクで、気持ち悪い。
その後ろの部屋で、牢越しに自慰にふけるサトルの姿も印象的です。
それから、雨のシーン。
ツムジとココが何かを話しているのですが、雨のせいでよく聞きとれない。でも、そんなのは問題じゃないんです。
台詞が聞こえなくても、その映像だけで、もういいんです。
ツムジのよこで雨をあびるココと、幻覚に苦しむツムジ。その映像のなんと、残酷なこと。
俺は不思議に思うのですが、いまの日本の映画やドラマは、「お約束ごと」に囚われすぎているような気がします。登場人物の台詞はちゃんと聞き取りやすくし、話の展開をわかりやすくし、俳優にはキメの展開を用意する。それは、別にいらないと言うわけではありません。否定はしたくないです。
でも、もう飽きました。つまらないし、うんざりする。辟易する。まだ小説を読んでた方がましです。
岩井俊二は、それらお約束ごとに囚われず、かといって無視もせず、うまく使いこなしている監督だと思います。

つぎに、色彩。
ココの着る服。患者たちの着る服。施設の暗さ。空の色。木々の鮮やかさ。教会の神秘的な雰囲気。
どれを取っても素晴らしいです。
特に結末の、太陽の夕陽とカラスの羽が舞う場面は、映像と色彩が融合し、圧倒的な美しさと悲しさに支えられている。
ジャン=リュック・ゴダール監督も、このような撮り方をしていると聞きました。
これら色彩の綺麗さと、曖昧さが、この作品のひとつの見せ場でもあります。
俺はいままで、こんな映画を観たことはなかった。一時間ちょっとの映画なのに、それなのに、この悲しみ。
映像や色彩に関しては、狙いすぎと言われても仕方ないでしょう。しかし、それでいいのです。物語の展開や台詞に気を使いすぎて、逆に陳腐化された映画より、はるかに感動的です。
映像だけで人を引きつけられるのだと、初めて実感しました。

この映画にストーリーはさほど重要ではないように思います。そりゃあ「塀のうえを歩く」という設定はすばらしいですが、でも基本的に、この映画にあるストーリーはそれだけです。
それなのに、物語。
どうしてたかが60分ちょっとの映画で、これだけ人を引きつけ、感動させ、絶望にたたき落とせるのでしょうか。悔しいほどうまい。
岩井俊二の作品は、その映像や色彩や音楽の美しさゆえに、希望があるように見えます(特に『リリイ・シュシュのすべて』などは)。しかし、本当はたぶん違う。
本当は、そこはかとなく絶望的なのだろうと思います。
映画のストーリー的な問題ではありません。
それら絶望や悲しみを、ここまでシュールに、ここまで美しく撮影できる岩井俊二の技量に、俺は何度でも感動する。
もう十年くらい前の映画ですが、古さは感じません。
いまでも、この映画の悲しくて哀しくて愛しい映像が映えています。

いまそんなことができる監督は、岩井俊二と、青山慎治くらいしか思い浮かびません。
彼らはいまの映像業界で画期的な(「画期的」というのは、本当はおかしすぎるのに)、まっとうなやり方で映画を撮る、稀少なアーティストだと思います。
芸術とはつまり、「約束ごと」をつくらないことなのではないでしょうか。

by 竹永翔一  at 10:42 |  映画 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑