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ポンヌフの恋人/レオス・カラックス監督作品


監督・脚本/レオス・カラックス

主演/ドニ・ラヴァン ジュリエット・ビノシュ


レオス・カラックス監督の、『ポンヌフの恋人』は知っている人も多いかもしれない。フランスの映画監督であるカラックスは、デビュー時「ゴダールの再来」と謳われた監督です。映像と映像にある「溝」が、なんともいえない。
彼のデビュー作『ボーイ・ミーツ・ガール』はすばらしかった。
難解で、せりふが極端に少なく、80年代の映画なのにモノクロなのですが、ものすごく映像が綺麗でした。それに、モノクロにしたことで、却って古さを感じさせず、新鮮な印象を与えていると思いました。『ポンヌフの恋人』も例外ではありません。

この『ポンヌフの恋人』は、カラックスの青春三部作の完結編で、主人公は一貫してドニ・ラヴァンが演じています。彼の野暮ったい表情や演技は、とても演技っぽくなくて、逆にすばらしい。
恋人役のジュリエット・ビノシュも、非常に独特な美しさを放っています。
二作め以降、カラーの作品ばかりですが、古さはちっとも感じませんでした。カラックスは普通の監督とは違い、型にはまった撮り方をしない監督だと思います。
カメラが思いきり手ぶれでぶれているシーンも多く、視点があちこち行ったり来たりをくり返す。なんとなく、岩井俊二を彷彿とさせる撮り方だと思いました。
あらすじやストーリーは、説明しません。優れた小説に解説が不要なのと同様、優れた映画に説明はいりません。
ただ、観てください。
俺たちが、「いま生きている」、ということを思い出させる映画です。

カラックスはこの映画の制作に10年程かかったと言っています。
総制作費14億円のこの作品は、そこら辺のハリウッド映画よりもとてつもなく地味で(本当はちっとも地味じゃない。ある意味、すごく派手です)、しずかで(花火の音や音楽が非常にすばらしい)、狂気的ですが、それもまた、カラックスが「ゴダールの再来」と言われる所以ではないでしょうか。


ただの純愛映画ではない、ただならぬ「生臭さ」を、強く感じさせる映画だ、と思います。
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by 竹永翔一  at 00:57 |  映画 |  comment (4)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ケータイ小説と文学

先週だったか、NHKの番組「ETV」で、ケータイ小説の特集が組まれていた。
何故いま、ケータイ小説が女子高生にウケているのかを、写真家で随筆家の藤原新也が迫る、といった内容でした。
俺はつくづく悲しい気持ちになりましたが、一方で、ある意味で納得もしました。
ケータイ小説家たちは皆、自分の実体験あるいは想像を、サイト上に綴る、といった方法で作品を公開しています。
人気のある作品は、書籍化され、うまくいけば『恋空』みたいに映画化されます。

ケータイ小説家たちは皆、年齢が若く、十代が圧倒的に多いです。
文学の世界も、いまや十代でデビューする人たちがたくさんいます。

まず、その十代の新人作家の登竜門的な存在として、「文藝賞」があります。
2001年に、綿矢りさが『インストール』で史上最年少17歳でデビューし、その後2003年に羽田圭介が同じく17歳で『黒冷水』で、2005年には三波夏が『平成マシンガンズ』により、なんと史上最年少15歳で、綿矢りさ、羽田圭介の記録を破りデビューしました。
また、「すばる文学賞」からも、2003年に金原ひとみが19歳で、『蛇にピアス』でデビュー。
その内、綿矢りさと金原ひとみは、それぞれ最年少で芥川賞を受賞し、一気に知名度をあげました。

このように、十代でもじゅうぶん、文学賞からデビューできるのに、なぜ「ケータイ小説」なのか。

理由は簡単で、「手っ取り早く手軽に書けて、かつ多くの人に読んでもらえる可能性があるから」です。
確かに、成功すれば利益は大きいでしょう。もちろん必ずしも、ケータイ小説家が読んでもらおうという意識で書いているわけではないようです。
Chacoというケータイ小説家は、最初はそれまでの出来事を振り返るために書いて、出来上がったら削除するつもりだったのだという。しかし、いつのまにかその話が爆発的人気をよび、あとに引けなくなったと言います。

この話からもわかるように、「ケータイ小説を書く」ことは、リスクを負わずにすみます。
お金もかからず、すんなり小説を世に出すことができる。
しかし、残念ながらほとんどのケータイ小説は、個人的にいえば、駄作ばかりです。

実体験を元にした話なら、まだ許せます。しかし、そうじゃない作品は、あまりにお粗末すぎるような気がしてなりません。そもそも実体験を元にした小説も、お粗末すぎる。
『恋空』などその典型です。
こんなことを書くのは、お門違いもいいとこだろうとは思います。しかし、俺はどうしても、いま売れているケータイ小説が許せないのです(この時点で俺はおそらく間違っています)。

サイト上で人気のある作品が書籍化されて売れるのは、当然だと思うのです。
リスクを負わずに、なんの難点も気にせずに本が売れる。
俺は小説家でもないのに、やたらむかつきます。
なぜ、文学賞からデビューした若い作家(少なくとも、ある種の「リスク」を負った人たち)の小説は、女子高生たちに注目されないのでしょうか。
注目されたとしても、ほとんど大人にばかり注目されます。

金原ひとみは、こういう事態についておもしろいことを言っています。
ちょっと引用します。

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私自身、デビュー前から、お金が発生しない形では小説は出したくないと思っていました。自費出版とか、とても流行っていますけれど、それでは意味がないと。そんな事をするくらいだったら、一人で書いて一人で推敲して一人で読んでいたいと思うんです。

『野生時代』9月号より

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これはつまり、リスクを負うことが大事なのだということです。
そして、大概のケータイ小説はハッピーエンドで、結果的に、ある種の「癒やし」をもたらします。俺は本当に、びっくりしてしまいます。
なぜみんな恋人を(あるいは友人を)殺して、でも私は頑張って生きるよ。あなたの分まで精一杯生きるからね。と、なぜそんな結末になってしまうのでしょうか。
なぜ、主人公たちを生かそうとするのでしょうか。
俺には意味が分からない。

金原ひとみはまた、こうも言っています。

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だいたい、なんで小説なんかで癒されなくちゃいけないの

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全くそのとおり。小説だけでなく、映画や音楽でも、「癒されなくちゃいけない」ものばかりが先行しているようです。
ばっかみてぇ。まじでどうかしてる。

小説は、そもそも物語は、だれかを癒すための代物ではない。いや違うかもしれないけど。
「癒やし」がある物語も、すばらしいものがたくさんあるはずです。
たとえば、舞城王太郎という小説家。
彼なんかは、最後の最後でものすごく癒されます(例外はありますが)。それまで暴力的だったり暴走していた話が、急に着地するような感じ。
それでも、俺は彼の小説が好きです。
また、よしもとばななという作家。
俺は彼女の小説は好きではありませんが、うまいなあ、とは思います。少女漫画的な雰囲気なのですが、それをちゃんと「小説」として昇華させている、稀有な作家です。

「癒やし」を目的とした小説があってもいいです。しかし、いかんせんケータイ小説は、あまりにも取って付けたような、ご都合主義的な「癒やし」ばかりじゃねえかよ。
舞城王太郎やよしもとばななが優れているのは、その物語にあった、うまい着地点=「癒やし」を捻りだしているからで、とても自然です。
読んでいて、少なくとも、癒されます。癒やしの種類はちがえども。

ケータイ小説は、そのような着地点をいっさいかえりみず、こうすればウケるな、とか、こういう結末だったら良い感じだな、というただの「定番」にはまっている。もちろん例外も少なからずあるでしょう。ケータイ小説で「文学」をやろうとしている人たちもいるはずです。
でも、そういう人は全く注目されない。

俺は「文学」が偉いとか、ケータイ小説よりも上だ、と言いたいわけではありません。
ケータイ小説というひとつの「手段」も、否定はしません。
ただ、あまりにも、型にはまりすぎているということが言いたいだけです。
たしかにケータイ小説は、そこら辺の小説家の描く十代より、確固たる空気があると思います。
でも、それだけじゃん。

もし、文学が描いてきた「どうしようもないこと」や「救いのないもの」が、ケータイ小説に不要ならば、俺はケータイ小説を断絶し続けます。

最後に、この記事を読まれて不快になられた方がいらっしゃったら、謝ります。
すみません。

これは今、現時点での俺の気持ちにすぎませんから、できればスルーしていただきたいところです。
by 竹永翔一  at 00:36 |  書評 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

阿修羅ガール/舞城王太郎


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少なくともまだ、私はアイムプリティファッキンファーフロムOKって感じではない。
私はとりあえず顔射も口の中でドピュドピュゴクンも中出しもプリズンエンジェルも避けられたのだ。
うん、OK。
これまでの人生の中で一番最高の時って訳じゃないし正直辛いけど、でも大丈夫。私はまだまだやってける。
好きじゃない男の人とセックスしちゃうアホな女の子なんて、私だけじゃないはずだし、それどころかこの世にはそんな人が私の想像しているよりももっとずっとたくさんいるはずなのだ。そして、そんな女の子達の中には顔射やら口の中で~やら中出しやらプリズンエンジェルやらの目に遭ってる人たちもたくさんいるんだろう。いや、プリズンエンジェルはなかなかないか。ってそんなことはどうでもよくて、とにかく、私はヤな目に遭ったけれども本当の最悪の目に遭った訳じゃないのだ。
私はまだOK。
こんなところでへこんでたら、実際プリズンエンジェルの人に申し訳ない。

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第16回三島由紀夫賞受賞作。

うえの引用を読んで、なんだこれは! と思ったそこのお前! そうお前よお前。最初に言っておくが、この小説はすばらしい、愛と存在と少女の物語なのだ。舞城王太郎はけっして嫌がらせであのような文章を書いたわけではなくて、ただ女子高生の語りをリアルに近づけるために用いたにすぎない。
実際この語りはよく出来ていると思います。少なくとも、女子高生のしゃべり口調に近いです。
そう、すべては舞城王太郎の狙いにすぎない。

第一部、第二部、第三部からなるこの長編小説は、今まで俺たちが呼びならわしてきた「文学」とは一味も二味もちがいます。
舞城王太郎は、今まで他の作家が置いていった技術を捨て、完全に独自の小説を打ちだしてしまった、稀少な小説家である。

主人公のアイコは、好きでも何でもない佐野とやってしまい、後悔する。
しかも冒頭からいきなりその意を表明し、あまつさえ、アイコにこう言わせている。

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減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
返せ。
とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうものじゃなくて取り返すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。

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ふつう、小説で主人公にこんなことは言わせないと思います。物語が進むにつれて、その意思が示されるのであって、いきなりこんなふうに反省するように描かれた小説は、たぶん初めて読んだ。
舞城王太郎は、いわばそのような小説家である。
「文学」がタブーとしてきたことを平気で冒し、かつそれを成功させた、唯一の作家でもある。
もちろん他の作家(特に年配作家)には、彼を認めないとしている人たちもたくさんいます。しかし、そんな奴らは、何にも読めていない。俺たち一般人が何にもわかっていないから、何にもしないから、わざわざ作家である舞城が俺たちのもとに歩み寄ってきているのです。そんな文学は、今までの日本にはなかった。
アイコは陽治に恋している。知られたくないことを知られて、「バーカバーカ陽治死ね死ねって気分と、もう何でなの陽治?」って気分になるし、「やべー泣きそうだ。泣きかけだ。半泣きだ。ううう、目が熱い」なんてことにもなるし、つまりは「普通の女子高生」なのだ。
舞城王太郎作品に登場するひとびとは、皆ふつうだ。ふつうだからこそ悩むし悲しむし恋するし、人を愛する。
そんなことが、飽きないように、ずらーっと描かれている。「死ね」を連発するあたりは、金原ひとみ作品にも通じるような気もします。
街では「アルマゲドン」が起こったりしている。子供たちが反乱をおこす。
第二部ではへんな森が出てきて、まったく意味がわからない。第三部で、すべての謎がわかる。
全部説明してしまっているのだ。これは何々のメタファで、これはこれの伏線なんですよ、と、アイコを介してさらっと説明してしまう。
文学のタブーを、舞城王太郎は冒している。しかし、それが成功している。ちゃんと「文学」になっている。
すごい。としか言えない。
何がなんだかわからないけどとにかく面白いし切ないしいとおしいのだ。
そう、舞城王太郎はご丁寧にも、俺たちに愛を説いてくださり、そのうえそれをエンターテイメント性の高い話を絡ませて、物語として、純文学として昇華させることに成功している。最後にはすべてを説明してくれる。
それは、ある意味侮辱されていると取れるかもしれない。
説明しなくちゃ解ってもらえない。読んでもらえない。舞城はそう思っているかもしれない。
だとしたら、それは悲しいことだが、それでも俺はすごいと思う。

舞城王太郎は、文章もすばらしく巧いです。
読点が少なくて、読みにくいと思うかもしれないけれど、それは計算された読みにくさなのです。
それにあのスピード。
他の作家には絶対に真似できない。

これを、およびこの作家を認めなかった宮本輝や石原慎太郎は結局、何にも読めていなかったのでしょう。
でも、舞城はあきらかに「新しいこと」をやろうとしている。小説という芸術を壊そうとしている。

詳細なあらすじも経過も説明しません。読んでみてください。
舞城王太郎が、やさしく、朗らかに説明してくれます。

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他人の神様パクんな。
と思ったけど、そもそも宗教なんてパクりばっかなんだった。宗教心そのものもパクりだ。なんか心に穴開いた奴らがあ~やべ~何かに夢中になりて~ってきょろきょろまわり見て、何かよくわかんないけど一生懸命空やら十字架やら偶像やら拝んでる奴らを見つけてあ、あれ、なんか良さげ~とか思って真似すんのが結局宗教の根本。布教ってのはそういうぼさっとしてるわりに欲求不満の図々しいバカを見つけてこれをパクって真似てみたらなんとなく死ぬまで間が持ちますよって教えてあげること。まあそんなふうにパクりでも真似事でも何でも、人の役に立ってたり、少なくとも人に迷惑かけてなかったらなんでもいいけど、猫とか犬とか子供とか殺して、その言い訳に、人からパクった宗教とか主張とかイデオロギーとか使う図々しいバカは死ね。
つーわけでグルグル魔神とか名乗ってる奴も死ね。

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by 竹永翔一  at 15:50 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

溺レる/川上弘美


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「モウリさん何から逃げてるの」逃げはじめのころに聞いたことがあった。モウリさんは首を少しかしげて、
「まあ、いろんなものからね」と答えたのだった。「中ではとりわけ、リフジンなものから逃げてるということでしょうかねえ」
「リフジンなものですか」ぽかんと口を開けてモウリさんを仰ぎ見ると、モウリさんは照れたように目を細め、何回か頷いた。
「リフジンなものからはね、逃げなければいけませんよ」
「はあ」
「コマキさんは何から逃げてるんですか」

「溺レる」より

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第11回伊藤整文学賞、第39回女流文学賞受賞作。

この本を読んだのは、去年ですが、いまだ印象に残っています。川上弘美はひらがなと漢字とカタカナの使い方が半端じゃなくうまいですね。
表題作をふくめた全八編からなる短篇集です。

『センセイの鞄』を読んだときも思いましたが、川上弘美の小説の人物たちはいつも何かを食べている。
「さやさや」の主人公と男はむやみにしゃこを食べ、「百年」の主人公は寿司屋のおやじが困ってしまうほどシンコばかり食べる。食べる。食べつづける。後者の場合は心中まえのやけ食いとも言えますが。しかし何か動機があって食べているわけではないらしい。楽しんでいるとも思えないし、ただ黙々とシンコならシンコにのめりこむ。シンコを食べつづけることで、それ以外のことを忘れられるわけだろうか。
つまりは、逃げるために食べる。
この短篇集の男女は、逃げている者たちが多い。しかも、「カケオチ」とか「ミチユキ」とかみたいに色っぽいものではない。「無名」の男女のように死後500年たっても逃げ続けている奴らがいると思えば、今から逃げだそうとする奴らもいる。いろいろだ。
逃げるとは、はたして何からか。それは世間からだ。そこから、彼らはどこまで行けるのか。
それだけだと、ありきたりなつまらない小説だと思うでしょう。

「さやさや」の男女はしゃこを食い終わったあと、「人家もなくなり電信柱も稀になった」夜道を、とぼとぼ行く。
「七面鳥が」の男女は、オクラとめざしとホルモン焼きかなにかでいっぱい呑んで、店の外に出て歩く。その場所は「夜が、暗い。こんなにも暗い土地だったろうか」。
とりあえず、暗い場所に行く。しかしまだこれからだ。行きずりの不動産屋でみかけた「四畳半トイレ・歩五分・新築・一万五千」のアパートやら、10分おきにぐらぐら揺れる線路沿いの部屋やら、さらに向こうには高速道路の横転事故でオシャカになったり、日本海の自殺名所からのとびおり自殺で一抹の最期がある。
逃亡のはて、死がある。
暗いが、男女はそれなりに楽しくやっているかもしれない。
世間の責任や義務から逃亡していて、暇がありあまっている。だから、真っ昼間からそれ一間しかない安アパートの日当たりのいい六畳間で「溺レる」。「アイヨクに溺レる」。
まあ、溺レるのは食べるのと同じような、そういうものなので、あまり良いもんじゃないけれど。
しかしある瞬間に、パッと明かりが射したりする。
ただの明かりではない。世間の裏側にいて初めてみることができる、普通ではない、ちがう明かりである。
彼らはもう、帰ることができないらしい。

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「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」
「帰れないかな」
「帰れないなぼくは」
「それじゃ、帰らなければいい」
「君は帰るの」
「帰らない」
モウリさんといつまでも一緒に逃げるの。
その言葉は言わないで、モウリさんに身を寄せた。モウリさんは小学生みたいになって泣いていた。

「溺レる」より

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もう帰ることの出来ない場所にいるのだ。この短篇集の男女は子供みたいである。大人になることから、逃げたい。そう感じているようにみえる。
それから、男に誘われて女は逃げる。
きれいな女ではない。つまらない女とだ。ある女は「おおかたの人から、あんたと居るのはつまらない、と言われた」り、別の女は、男が部屋に帰っても「部屋の中の電気はついておらず、畳にじっと座ったり寝そべったりしたまま、本を読むわけでもなく仕事をするわけでもなくものを食べるわけでもなく、いちにち茫然と過ごして」いるらしい。

ちょっと、内田百間を思いだす。なんでだかわからないけれど。

彼女たちは皆、男とともに「溺レ」ていく。つまらない女と一緒にいると、帰れなくなるらしい。
幸運なことに、これらは小説の中の出来事であり、またあるいは、小説そのものが出来事でもある。
逃げることは帰る場所をうしなうことなのでしょうか。
それかいっそ、「アイヨクに溺レ」たほうがいいのでしょうか。
それもまた、この小説のなかの彼らの人生です。

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僕は虫が食えなくてさ。トキコさん、虫はどう。トキコさん、七面鳥飼うの、やめろよ。飼うなら文鳥がいいよ。トキコさん、また酒飲みたくなってきたな。トキコさん、僕は眠たくなってきた、もう帰ろう。もう帰って、眠ろう。うん、うん、とわたしは頷いた。足は鉛のように重く、わたしもハシバさんも歩いているのにほとんど進まない。とりとめもなく、わたしたちはどこかに向かって歩いてゆく。おそろしい、おそろしい、と思いながら、どこやらに向かって、歩いてゆく。

「七面鳥が」より

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by 竹永翔一  at 14:21 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

PiCNiC/岩井俊二監督作品


監督・脚本/岩井俊二

主演/Chara 浅野忠信 橋爪こういち


岩井俊二監督の『PiCNiC』を観ました。同監督の映画を観るのは、『花とアリス』『リリイ・シュシュのすべて』に続いて三回めです。いやはや、何と言っていいのか、やばかった、としか言えない。何がやばかったかは、ここでは言えない。観てほしい。意味が分からないというかもしれませんが、それでも観るべき映画だと思います。
勿論、強要はしませんが。

岩井俊二は天才です。作家として小説も何作か出したりしているらしいですが、少なくとも映画監督としては天才的に巧いです。

まず、その映像。
冒頭、老人らしき人物が道路に薔薇をいっぽんいっぽん置いていくシーンから始まる。その薔薇を車が踏みつけ、精神病院らしき施設に入っていくシーンへとかわる。
このシーンも、いろんな意味ですごいなあ、と思います。
(たぶん)主人公であるココは、ふたごの妹を殺して、この施設に収容されることになった。彼女はそこで、ツムジとサトルという青年と出会い、世界の滅亡をみにいくために、塀の外には出られないので塀のうえを歩いて、ピクニックに出かける。
概要を説明したらこんな感じでしょうか。たったこれだけの映画なのですけど、何なんだろうこの悲しみは。
この映画から印象にのこったシーンを選ぼうとすると、もう数えきれません。それくらい、この映画は「映像」として優れています。
ココが塀のうえを走ったりする場面でさえも素敵です。教会の牧師との出会い。世界の滅亡をみにいくことを決めたシーン。サトルの死ぬ場面。雨の場面。そして最後の場面。
何なんだろ、この美しさは。美しいだけじゃなくて、映像の端々から奇妙なものが垂れ流されているようです。
ツムジは自分の殺した小学校の担任の幻覚に毎晩悩まされており、その担任が出てくるシーンは秀逸である。すばらしくグロテスクで、気持ち悪い。
その後ろの部屋で、牢越しに自慰にふけるサトルの姿も印象的です。
それから、雨のシーン。
ツムジとココが何かを話しているのですが、雨のせいでよく聞きとれない。でも、そんなのは問題じゃないんです。
台詞が聞こえなくても、その映像だけで、もういいんです。
ツムジのよこで雨をあびるココと、幻覚に苦しむツムジ。その映像のなんと、残酷なこと。
俺は不思議に思うのですが、いまの日本の映画やドラマは、「お約束ごと」に囚われすぎているような気がします。登場人物の台詞はちゃんと聞き取りやすくし、話の展開をわかりやすくし、俳優にはキメの展開を用意する。それは、別にいらないと言うわけではありません。否定はしたくないです。
でも、もう飽きました。つまらないし、うんざりする。辟易する。まだ小説を読んでた方がましです。
岩井俊二は、それらお約束ごとに囚われず、かといって無視もせず、うまく使いこなしている監督だと思います。

つぎに、色彩。
ココの着る服。患者たちの着る服。施設の暗さ。空の色。木々の鮮やかさ。教会の神秘的な雰囲気。
どれを取っても素晴らしいです。
特に結末の、太陽の夕陽とカラスの羽が舞う場面は、映像と色彩が融合し、圧倒的な美しさと悲しさに支えられている。
ジャン=リュック・ゴダール監督も、このような撮り方をしていると聞きました。
これら色彩の綺麗さと、曖昧さが、この作品のひとつの見せ場でもあります。
俺はいままで、こんな映画を観たことはなかった。一時間ちょっとの映画なのに、それなのに、この悲しみ。
映像や色彩に関しては、狙いすぎと言われても仕方ないでしょう。しかし、それでいいのです。物語の展開や台詞に気を使いすぎて、逆に陳腐化された映画より、はるかに感動的です。
映像だけで人を引きつけられるのだと、初めて実感しました。

この映画にストーリーはさほど重要ではないように思います。そりゃあ「塀のうえを歩く」という設定はすばらしいですが、でも基本的に、この映画にあるストーリーはそれだけです。
それなのに、物語。
どうしてたかが60分ちょっとの映画で、これだけ人を引きつけ、感動させ、絶望にたたき落とせるのでしょうか。悔しいほどうまい。
岩井俊二の作品は、その映像や色彩や音楽の美しさゆえに、希望があるように見えます(特に『リリイ・シュシュのすべて』などは)。しかし、本当はたぶん違う。
本当は、そこはかとなく絶望的なのだろうと思います。
映画のストーリー的な問題ではありません。
それら絶望や悲しみを、ここまでシュールに、ここまで美しく撮影できる岩井俊二の技量に、俺は何度でも感動する。
もう十年くらい前の映画ですが、古さは感じません。
いまでも、この映画の悲しくて哀しくて愛しい映像が映えています。

いまそんなことができる監督は、岩井俊二と、青山慎治くらいしか思い浮かびません。
彼らはいまの映像業界で画期的な(「画期的」というのは、本当はおかしすぎるのに)、まっとうなやり方で映画を撮る、稀少なアーティストだと思います。
芸術とはつまり、「約束ごと」をつくらないことなのではないでしょうか。

by 竹永翔一  at 10:42 |  映画 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑