fc2ブログ

おすすめの作家、アーンド、絶対読まなくていい作家

一日にこんな更新しちゃって……(笑)更新最近してなかったですし。
この記事では、おすすめの作家ひとり、個人的に嫌い、あるいは苦手な作家を。


平野啓一郎

この人はおすすめ。「三島由紀夫の再来」と謳われた(それは褒めすぎでしょうがね)作家です。初期の作品は三島から影響をうけた古臭い文体が特徴的。最近ではもっぱら実験的な作風ですが。好き嫌い激しいみたいなので、注意が必要かと。
『日蝕』『高瀬川』『顔のない裸体たち』『あなたが、いなかった、あなた』など。


保坂和志

この人もまた、なーんにも起こらない作品ばかり書く作家。なんとなくノスタルジックで、映像的な作風が特徴ですかね。
『プレーンソング』『カンバセイション・ピース』『小説の自由』『もうひとつの季節』などを。


ここから嫌い、あるいは苦手な作家をご紹介。ファンの方いたらすみません。


辻仁成

この人は本当に、大っ嫌いなんですよね(笑)○んだら?ってくらい嫌い。まず文章が気持ち悪い。なに時代とかの問題じゃなく、単に恥ずかしい比喩の連続と失笑を買う恋愛ばかり書きすぎ。最初に江國香織と、次に韓国の女性作家と、最近また江國香織とコラボレーションして小説を出すという、コバンザメみたいな作家。つーかなぜ江國香織はこんな男の小説を誉めるの? コラボすんの? と、まあ江國ファンとしてもいらない人。だいたいもう消えかけてるし。『冷静と情熱のあいだ』は江國、辻どちらの小説も読まなくてよし。

続きを読む »

スポンサーサイト



by 竹永翔一  at 22:40 |  雑記 |  comment (1)  |  trackback (0)  |  page top ↑

再び・おすすめの作家

再びですね(笑)
とりあえず、今回は海外作家やすでに亡くなられた作家も含めて、おすすめの作家を紹介しましょう。


中上健次

先鋭的かつ土俗的な方法で、紀州熊野を舞台にした作品を多く書き、ある血族を登場させる「紀州サーガ」という土着的な作品世界を作りました。初期には大江健三郎から文体の影響をうけ、村上龍同様、女性に重点をおいた作品も多いです。好き嫌いわかれるでしょうが、すごくかっこいい小説ばかりです。
『水の女』『一八歳、海へ』『一九歳の地図』『岬』『軽蔑』などがおすすめ。

高橋源一郎

日本でもかなりレベルの高い作家。ポストモダン文学を書く作家ですが、その独特な小説世界には、驚かされました。小説の可能性を追求する作家です。
『さようなら、ギャングたち』『虹の彼方へ』『ペンギン村に陽は落ちて』など。ちなみに室井佑月の前夫。


島田雅彦

青臭い作品を描くのが得意みたいですね。高橋源一郎と同じポストモダン文学を書く作家。若い年代を書かせたら、うまいです。
『彼岸先生』『君が壊れてしまう前に』『優しいサヨクのための嬉遊曲』無限カノン三部作などを。


小林恭二

島田、高橋同様ポストモダン文学の作家。あまり知名度は

続きを読む »

by 竹永翔一  at 22:10 |  雑記 |  comment (1)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ナンバーワン・コンストラクション/鹿島田真希


──────────

あの人は憎んでいない人のことも苦しめる。愛している人のことも。きっとそういう人なんだわ。あの人が誰かを苦しめること、悪に身を染めることに理由なんてないんだわ。それは快楽? いいえそれも違うわ。あの人はその類の人でもない。だって私に罰を与えたあの時のあの人は、どこかつまらなそう。つまらなそうで、しらけていたし、そして苦しそうだった。あの人の罰は性愛じゃない。性愛すらおそらく信じていない。彼はなにも信じていないわ。

──────────

第135回芥川龍之介賞候補作。

上の引用を読んで、ものすごい異和感をもった人も多いと思います。
俺も、正直この作品は苦手なのですが、あえて紹介します。
会話から文体、メタファなどが異様に古臭い。会話に関しては、19世紀のロシア文学の翻訳調の文体を意識していたり、トルストイの小説のモチーフが使用されていたり、議論ばかりしていたりと、いろんな意味で時代錯誤的な小説です。
おかげで、読者に一切の感情移入を拒んでいる。ついでに、何だか可笑しな悪意まであり、そういう意味では、この作品は中原昌也の小説に近いような気がします。意外と笑いの感覚が似ているのかも。
こういう箇所があります。

──────────

大抵の人間は無根拠を知ると、落ち着きをなくして苦しむ。自分のやっていることの無意味、志が取るに足りないということ、自身の存在への不信。それらは絶望につながる。今、彼はじわじわと無根拠に蝕まれつつある。

──────────

中原昌也が小説で言っていることに似ていると思いました。

他には、鹿島田真希特有の、宗教上の贖罪と赦しがはいってくる。あと、結末の下世話さ。「建設」が重要なテーマです。登場するS教授は建設史家ですし。
登場人物はおもに四人(S教授、M青年、少女、N先生)なのですが、彼らの関係がかなりアンバランスで、あちこち行ってしまう。
笑えるのは、やはりラストと、彼ら登場人物の会話および独白。いまどき、そんなこと言う奴いないだろ、という感じですが、そのばかばかしさが面白い。
たとえば、この場面。

──────────

「これは彼女へのプレゼントです。これからお祝いするんですよ。今日はきっと二人の記念日になる。そんな気がします。」
N講師は恍惚としてそう答えた。
「まあ、どんな記念日でしょう。とにかくおあがりになって」
N講師と母親がプレゼントの包み紙を開けるように促すので少女は袋を開けた。ぐったりした子猫が震えながら、弱々しい足取りで袋から出てきた。少女の体に悪寒が走った。
「どうだい。素敵なプレゼントだろ? 君が以前猫を飼いたいと言っていたから買ってきたんだよ」
「そうね」
少女は青ざめて頷いた。
「なんてかわいい子猫ちゃんなんでしょう。種類はなんですの」
「アメリカンショートヘアです。血統証つきですよ」
「こんな高価なプレゼントをいただけるなんて、うちの娘は幸せものね」
「お母さん。この猫具合が悪そうだわ。看てあげて」
「はいはいわかりました。お前ったら私と先生が話をしているとすぐに遮るんだから。きっとやきもちね。台所にタオルを敷いて寝かせてあげましょう」

──────────

このような会話が、まるで「エルム街の悪夢」のように続いて、ちょっと目眩がしますね。

それから、ラスト1頁。
ここは秀逸ですね。S教授はカフェで働いている少女が好きだったのですが、最後がそのカフェのシーン。
S教授がホットサンドからこぼれたターキーとレタスについて文句を言うシーン。これだけで笑えるのですが、そのあとがもっと面白い。

──────────

彼はまさかと思って走ってスタンドまで行った。
「このサンドイッチを作ったのは誰だ!」
彼は怒鳴った。
「私だけど、文句ある?」
彼女ではなかった。浅黒い、背の高い女性が胸をはって出てきた。
「このサンドイッチのマヨネーズはなんだ! あんなに楽しみにしていたのに。気が狂いそうだ!」
(略)
女性は彼に平手打ちを食らわした。
「馬鹿じゃないの。変態」
彼女は相変わらず胸をはっていた。きっぱりと一直線に切りそろえられた前髪の下から、大きく美しい瞳が彼を見つめていた。教授は恥ずかしくなって、下を向いたが、彼女のネームプレートを見ることを忘れはしなかった。

──────────

ここまで読まされて、このオチかよ! と、突っ込みたくなりますが、まあ面白いですね。
最後にS教授の心変わり、という。

ただこの作品には決定的な問題があって、それは最後のほうで、この作品の意図をすべて説明してしまっていることです。メタファとか何から何まで。
これは小説としては、かなりの欠点でしょう。
「人の心は都市のようだ。文節と更新を繰り返す。N講師は赦しという言葉によって、無意識から意識へと更新された」とか、「人はその歩みにまばゆいばかりの悦楽を得る。そして死すべき運命であることを忘れる」とか、お前いったい誰!!?? と言っちゃうような文体で。
なぜ、こんなことをしたのか考えると、これは第135回芥川賞候補作ですね(ちなみにこの回には中原昌也も候補でした)。つまり、これは鹿島田真希なりの、芥川賞への対策だったのかもしれません。なにしろ選考委員には、石原慎太郎という壁があるので(それにしたってこれはひどいでしょ。おまけに、中原昌也と共に一番に落とされた)。

だからということでもないですが、鹿島田作品のなかではテーマがわかりやすく、建設理論を人間のありようとか世界の構造のメタファとかいうことを、たぶんわざと解るようにしているので、さほど難解な作品ではありません。
それに、この作品はちっとも映像的ではなく、小説でしか出来ないことに果敢に挑戦しているとも思うので、あまり文句は言いません。

でも、鹿島田作品のなかでは中の下というクラス。
初心者には無難に、『六〇〇〇度の愛』などをおすすめしますがね。

基本的には、読みごたえある作家ですし。

by 竹永翔一  at 21:03 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

とおくはなれてそばにいて/村上龍


──────────

冷たいシャワーを浴びているうちに脈博と同じリズムで左耳が痛み始めた。さっき頭を打ったせいだろうとニキは思った。部屋に戻るとレダは二人の衣服をきれいに畳んで椅子に置いている。枕は黴臭く、シーツは湿って、レダの足は暖かい。
「抱いてくれないの? こんな部屋じゃいや?」
「疲れてるんだ」
「こんな宿しかないのよ」
「レダと一緒ならいいさ」
「朝まで一緒なんて初めてね」
リオに比べると静か過ぎてニキは眠れなかった。痛みはまだ続いている。

『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』より

──────────

村上龍の『村上龍恋愛短編選集 とおくはなれてそばにいて』を読んだのは、結構むかしです。
まえがきで、村上龍は「それほど多く恋愛小説を書いていないし、恋愛小説と明確にカテゴライズできるような小説も書いてこなかった」と言っているとおり、この短編選集の作品はみな、「恋愛小説と明確にカテゴライズでき」ないものばかりです。
そもそも村上龍に、あまり恋愛小説家というイメージもありませんし。
全体的に、初期の作品のほうがパワーのある彼ですが、この本には初期短編も含まれています。上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』もそのひとつ。

全19編収録されている本作でのお気に入りは、『そしてめぐり逢い』『受話器』『彼女は行ってしまった』『シャトー・マルゴー』上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』などです。

どの作品も、泥臭くて、退廃的にみえます。
『そしてめぐり逢い』の主人公はさまざまな女とセックスし、金もある。しかし高校時代のあこがれの女の子が裏ビデオに出ているのを知って、「がっくり」くる。
『受話器』の女はホテルにデリバリーされるSM嬢で、彼女は自分を「寄生虫のようなものだ」と言う。足フェチの男の口に受話器をつっこんだときに、「音」が聞こえてくる。
『左腕だけは君のもの』の男は、ニューヨークで会った女と関係をもち、写真を撮る。彼女は、「左腕を両手で抱きしめ」ていて、男は左腕だけはその女のものだと、今も思っている。

どの短編も、後味のいいものではないかもしれません。しかしいずれの短編にも共通しているのは、「個人的な希望」のような気がします。希望と呼ぶにはあまりに曖昧な「希望」。
それはジャズであったり、写真であったり、受話器から聞こえる音であったり、一度きりのセックスだったりする。しかし、それらは、この小説のなかではちゃんと機能している。
なぜ、「個人的な希望」なのか。それは彼らが、個人として生きようとしているからかもしれない。あるいはまた、自由だから。

村上龍はここ数年、希望についての小説を書き続けています。
それがすべて成功しているわけでは勿論ないですが、村上龍という、ある意味で「寓話的な作家」の書く物語は、常に時代と呼応しあっていると思います。
そういう意味では、一番成功している作家なのかもしれないですが。

また、この短編選集では、女性がおおきな存在感をもっています。どちらかと言えば、男よりも女のほうがさっぱりしているというか、見ていて逞しいです。
それはこの本の帯に書かれた、「女はセンチメンタルな生きものではない。問題は男の方なのだ」と重なります。

最近の村上龍のパワーは、ちょっと下降しつつありますが、この小説にはまだそれが残っていて、初期のファンの方でも、楽しめるんじゃないかと思います。

──────────

あなたとどこで出会ったのかどうしても思い出すことができない。あなたはわたしに近づいてきて、何か印象的なことを言った。だがあなたが具体的に何を言ったのかは思い出せない。わたしを誰かと間違えたような、おぼろげだがそういう記憶もある。
ただわたしは絵はがきを書いてくれる恋人に子供の頃から憧れていたから、あなたと出会えたことがうれしかった。わたしはあなたからの絵はがきを待つために海の傍に住みたいと思った。(略) その他には何もしないし、友人と長電話することもない。

──────────

by 竹永翔一  at 11:03 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑