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蹴りたい背中/綿矢りさ


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さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。

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第130回芥川賞受賞作。

あまりに有名なこの出だし。すばらしい悪意にみちてますね。「(苦笑)」があるのが、余計に痛々しくてせつない。

『インストール』は正直、途中で読むのを辞めてしまったのですが、この作品はとっても楽しめた。
まず、この文章。感覚に毛穴ってもんがあるなら、そこから汗みたいに流れでてくる言葉が綿矢りさの言葉だろう。

主人公の長谷川初実は、高校に入って友達をひとりも作っていない。「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌」というスタンスの下、単独行動者として学校で肩身のせまい毎日をおくる。クラスにはもう一人の余り者、「にな川」がいて、何となく彼の家に行ったり話したりしている。
友達ではない。でも恋人でもない。

この「友達でも恋人でもない」関係が続くわけですが、おそらくこの作品で重要なポイントのひとつがそれでしょう。
すっごく微妙な関係。恋愛感情みたいなのが湧いたとか、作中では説明されていません。
初実はにな川と理科の実験で同じ班になって、彼がモデルのオリちゃんのファンであることを知るのだが、実は初実は中学のころにそのモデルに会ったことがあった、たまたまではあるが。
にな川はそれを聞き、なぜか「魂も一緒に抜け出ていきそうな、深いため息を」つく。
にな川はこの場面でちょっとした奇行にでます。教科書に線を引きまくったり、ペン先を教科書に押しつけたり、初実をみつめたり。
重要な箇所はここで、彼は「がらんどうの瞳で」初実を見つめていた。初実はそれを、「ちょっと死相出てた。」と形容する。「私を見ているようで見ていない彼の目は、生気がごっそり抜け落ち」たように「完全に停電していた」にな川の瞳。
そう、にな川は初実ではなく、初実の向こう側にいるオリちゃんを見つめていたのだ。
その様子を、「ちょっと死相出てた。」と初実は言ったが、それはたぶん、その瞬間彼は死んでたんじゃないだろうか。向こう側にいるオリちゃんを見つめるために。
遠い彼方をみつめるその姿をこのように描写した綿矢りさはすごい。

個人的に、中学生の初実が無印のカフェでオリちゃんと外人カメラマンに会ったときの場面が印象的でした。「私」は毎朝朝食がわりにそのカフェで試食用のコーンフレークを食べているのだが、ある日偶然オリちゃんと外人カメラマンに遭遇した。
二人は初実に近づき、不躾ともとれる態度でふるまう。この場面の初実は、あきらかに緊張している。でもそんなのおくびにも出さない。むしろ虚勢を張っているかのような態度で、二人の「お酒くさい」大人に接します。オリちゃんは「もののけ姫みたい」な「私」の足を誉める。初実は内心嬉しいのですが、態度にだしません。大人っぽく振る舞おうとして、背伸びしている感があります。
そして、カメラマンはオリちゃんに、コーンフレークを「なんだかエッチな」態勢で食べさせ、彼は初実の口にもそれをもってきます。「私」は、「あんまり食べたくない」が、「しらけた空気が怖い」し、うまくいけば「この人たちの仲間になれるかもしれない」と、オリちゃんのまねをして食べますが、カメラマンの「男の人は、気味悪がっていた」。
これは、カメラマンの男が初実の意図する気持ちをわからないから起こった、決定的なディスコミュニケーションです。さらに、「私」が「あわてて媚びるような照れ笑いを作った」とたん、オリちゃんの「笑顔の温度が低く」なる。ふたりはすっかり「酔いが醒めたという顔をして」、「店を出」た。そう、彼らは大人で、初実は中学生だ。仲間にはなれない。

非常に印象にのこりました。こういう表現の仕方もあるのか、と。

初実はにな川の家に来た二回目に、オリちゃんのアイコラを見つけるのですが、それを見て彼女は、無性ににな川の「背中を蹴りたい」と思う。この描写も非常にすばらしくリアルで、目をみはります。

これは一種の、ゆがんだ性欲なのでしょう。

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彼の背中で人知れず青く内出血している痣を想像すると愛しくって、さらに指で押してみたくなった。乱暴な欲望はとどまらない。

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次に印象に残ったのが、この場面と結末です。

帰ろうとして立ち上がった初実は、「膝から下の力が抜けて、スローモーションのような尻もちをつ」く。
なぜ尻もちをついたのか。

結末、ベランダで寝ているにな川の背中を、蹴ろうとします。しかしにな川に気づかれそうになり、とっさに「ベランダの窓枠」にあたったんじゃないと嘘をつきます。窓枠をみつめるにな川。それから、「私の足」をみる。
気づかない振りをしてそっぽを向いていたら、「はく息が震えた」。

一体、何なのか、考えてみるとすぐわかりました。
初実は興奮していたのです。自分のあらがいがたい欲望に。
「いためつけたい。蹴りたい」背中をもつにな川に。
いずれの場面も、初実の興奮を表していたのでしょう。
結末からは、緊張と激しい何かが伝わってきます。

これらすべてを、綿矢りさのあの「日本語」で描写されたら、たまったもんじゃありません。
積み木を崩すようなその文章からは、「愛しい」よりも、「もっと乱暴な」気持ちがありありと浮かんできます。

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「痛いの好き?」
痛いの好きだったら、きっともう私は蹴らなくなるだろう。だって蹴っている方も蹴られている方も歓んでいるなんて、なんだか不潔だ。
「大っ嫌いだよ。なんでそんなこと聞くの。」

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by 竹永翔一  at 17:58 |  書評 |  comment (4)  |  trackback (2)  |  page top ↑

左の夢/金原ひとみ (すばる11月号)


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明日はいくつ? 毎日、寝る前にそう聞かれて、朝になると俺が言った数だけ炊飯器に入れてあった。あつあつのおにぎりを、いつも家を出る前にリュックに入れて、朝飯に一つ、昼に二つか三つ食べていた。あの頃は昼飯のおにぎり二つとコンビニで買ったカップラーメンの組み合わせが主流だったけど、最近はコンビニのおにぎり二つで済ませることが多い。毎日夕食を作って待っていた彼女はもういない。

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すばる11月号掲載の金原ひとみの短篇、『左の夢』を読んだ。
冒頭を読んでいて、どうもおかしいと思いながら読み進めていると、何が「おかしい」のかわかった。
語り手が「男性」だったのだ。

主人公の「俺」は、三年間つきあった恋人がアパートを去ってから、常に彼女のことが気にかかっている。
朝、起きたら写真の彼女に向かい「おはよ」と言い、出勤時には「行ってきます」と言う。「俺」は工場で働いていて、現場の先輩と仲がいい。昼休み、先輩が昼飯に誘うのだが、最近の「俺」は毎日コンビニのおにぎりばかりである。

語り手の「俺」の意識は、否応なく恋人と自分とのまわりを迷い続けている。金原ひとみの小説の主人公たちは、自らの自意識にとぐろを巻きながらも、その堂々巡りのなかから、なかなか抜けだせない。この主人公も例外ではなく、出て行った恋人のこと、というより、「恋人といた自分」を思い続けているようにみえます。
一言でいえば、「俺」はダメな男です。電子レンジの使い方もわからないし、ひとりになった途端、「何をどうしたら良いのか分からない」。「借りてるサラ金の一番近いATMがどこにあるのかも知らない」というのだ。

「俺」は「工業系の高校を中退して、美容師の見習い」をしていたが、ある日交通事故に遭う。左半身に障害が残るかもしれない、と宣告され、上京して美容師になるために必死でリハビリを頑張る。無事に上京して職につくが、あっさりクビになってしまう。「無職になりスロットばかりやってる内に家賃も光熱費も滞納が続いて、当初は簡単に返せるはずだった借金」が「どんどん非現実的な額に」膨らんでいく。そんな時に、恋人と知りあった。

語り手は「左」に、何らかの執着があるように思えます。この作品では、久々に「リストカット」「自傷行為」がモチーフとして使われているのですが、語り手の「俺」は恋人と別れてから、左手首を切ったりします。
その姿は、辛うじて自分のバランスを保とうとしているようにもみえる。
まるで恋人を失ったことにより、バランスを崩しているように。

作中で「俺」の恋人は実際に姿を現しませんが、結末、ある奇妙なかたちで現れます(もしくは、表れる)。それだけのためにこの小説が書かれたようにも思えるし、単になんの意味もないのかもしれない。

恋人は、語り手のモノローグの中では途中小説家になるのですが、そのことは金原ひとみのデビュー時を示しているようです。
実際、これは私小説風な作風で、それを男性側からアプローチしているみたいだ。

結末ちかくで、「俺」は恋人の残していった化粧品を顔じゅうに塗りたくって、口紅を引き、彼女の匂いを思う場面があるのですが、そこが異常にリアルなのです。語り手は「俺」なのに、まるで三人称のような印象があります。じっと、その光景を見つめているような……

すばらしくグロテスクで、巧い恋愛小説です。
「俺」は結局、振られるのですが、解放されたと思う反面、これからどうしていけばいいか分からない。
これは、上に書いた、ひとりで「何をどうしたら良いのか分からない」と繋がります。作中では、語り手は終始なさけなく描かれているのですが、これは「おにぎり」をめぐるモノローグではより顕著に表れているみたいです。「俺」はたまに、恋人の「明日はいくつ?」という、幻聴をききます。「明日はおにぎりいくつ?」と。これにより、語り手の恋人に対しての拘泥、情けなさをより深く、どうしようもないものとして描くことに成功している。

結末は、たぶん金原ひとみとしては異例な終わり方だろうが、それもまたこの人らしい。
「俺」はあれを読んで、どう思ったのだろうか。

二人の電話での会話が、思い起こされる。

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「もしもし」
「……俺だよ」
「……久しぶり」
「なあ俺さあ、もう駄目になっちまいそうなんだよ」
「……」
「もう駄目になっちまうよお前がいないと駄目なんだよ。お前だって俺がいないと駄目だろ? なあ戻ってきたいんだったらいつでもいいって、言ってるじゃんよ。なあお前さあ、誕生日に何欲しい?」
「今、仕事中なの」
「なあ俺待ってるから。誕生日ケーキ買って待ってるから。────」

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by 竹永翔一  at 00:40 |  書評 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

続・現存する作家で、おすすめしたい人たち

次は、癖のある、一般の人は敬遠しがちな作家たちを。


◯金原ひとみ


綿矢りさと共に芥川賞を最年少で受賞した作家。作品を追うごとに確実にレベルアップしてる小説家だと思います。
その内容は暴力的でグロテスクではありますが、同時に言い換えられない「哀しみ」も内在します。
『蛇にピアス』より、『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』を。


◯村上龍


村上春樹と共にW村上ともてはやされた作家。現在でも人気も実力もありますが、出来不出来のめだつ作家でもある(笑)
作品の多くは暴力とセックスに満ち、退廃を予感させますが、近年では「希望」を集中的に描いてる作家です。とりあえず初期の『限りなく透明に近いブルー』『コインロッカー・ベイビーズ』『トパーズ』『69』、近作では『村上龍映画小説集』『イン ザ・ミソスープ』『ラブ&ポップ』などを。


◯中原昌也


めちゃくちゃ癖の強い作家です。読者に絶対に何がなんでも感情移入させず、共感させない。意味のないストーリーとも呼べない小説を描く作家。しかし、ちゃんと物語。個人的に日本の作家で評価されてしかるべき人物でしょうが、文壇にも敵が多いよう(笑)
『子猫の読む乱暴者日記』『あらゆる場所に花束が……』を。


◯舞城王太郎


何というか、今いる若手の作家で一番活躍してる、実力もあるすばらしい小説家です。今までに、少なくとも今までの日本にはなかった手法で新たな世界を築き続けています。暴力的な表面に比べ、中身はふわっと、柔らかく、愛にみちみちています。
初めてなら『煙か土か食い物』、慣れたら『阿修羅ガール』『好き好き大好き超愛してる』を。


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by 竹永翔一  at 00:31 |  雑記 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑