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アッシュベイビー/金原ひとみ


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恋する肉体同士に中途半端な距離は、クソだ。血が噴き、傷をえぐる関係が欲しい。つまり愛する人よ、私を殺せ!

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芥川賞受賞第一作。

金原ひとみの第2作。読んで、好きという人はあまりいないとは思います。しかし、この作品は傑作です。

主人公の「アヤ」は、キャバクラ嬢で、男性を魅了するだけの容姿をもっている。彼女は大学時代の同級生の「ホクト」とルームシェアをしており、アヤはホクトがなぜ自分に性的な興味を抱かないのか不思議に思うのですが、実はホクトは、赤ん坊にしか性欲を抱けない幼児性愛者(ペドフィリア)だった。
アヤは子供が嫌いであり、ホクトは子供にしか性欲を抱けない。

アヤの子供嫌いは、読んでいて疑問を覚えるほど凄まじい。冒頭部分から、いきなりその頭角を現します。

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前を歩いてるガキがチラッとこちらを振り返り、いぶかしげに私を見た。中指を立てたけど、奴にはその中指が何を示すものなのか理解出来なかったらしい。

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またアヤは、「ヤリマン」であり、合コンで知りあった「モコ」という女の子とも関係をもつ。この放蕩っぷりは素晴らしいです。アヤは見境なく、やりたいと思った相手とやってしまう。何も考えないし、あとくされなく事を済ませようとしますが、このモコというキャラクターが後半、アヤを煩わせます。
ある日アヤの働く店に、ホクトの会社の同僚である「村野さん」がやってくる。「こんなに完璧なフォルムの手は初めて見た、というくらい」美しい指をもつ村野さんに、アヤは惹かれていく。
そんなとき、ホクトがどこからか赤ん坊を誘拐してきて、それを性欲の対象とします。アヤはその赤ん坊の存在に苛つく。

アヤはこの後、自慰をしながらなぜか自分で自分の太ももを果物ナイフで突き刺します。その傷がまさしく、男性に欲されるべき陰部であるかのように。

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きぇえー。私は叫んで昨日オレンジを食べた時に使った果物ナイフをつかんで左の内腿に突き立てた。私の肉体が反乱を反乱を起こした。(中略)まあ、いいや。どうせ私はなにやったって間抜けなんだから。死ねやクソ、私はそう言うと果物ナイフを引き抜いた。勢い良く飛び出した血を顔面にくらって、私は面食らった。血を吐く傷口なんて、マンコみたいだ。嗚呼、マンコ誕生。

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アヤはマンコを傷に見立てます。そう、マンコとは「傷」であり、痛みなのです。

『アッシュベイビー』を読んで、下手くそだと思った人は、あまりにも無邪気。実は、この小説は周到に考えられて作られた傑作なのです。

たとえば、この作品には三ページに一回の割合で性描写が描かれていますが、そのすべての性描写には、何かがごっそり抜け落ちています。何かが決定的に欠けているのです。
それは、アヤと村野さんの初めてのセックス描写が伏線となっています。
二人のセックスは、基本的に「ずれ」が生じている。

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村野さんはやっと服を脱いで、私の顔の横に手をついて挿入した。充分に濡らされたマンコはずぶずぶとチンコを受け入れ、「すっげーユルい」とか思われてるかも、なんて不安がよぎった。もっとシマリが良くて、チンコが抜けないくらいのマンコだったらいいのに。脚をカエル型に持ち上げながら、村野さんはまた傷を指で押さえた。血に塗れても、その手は卑屈なほどに、優美な微笑みをたたえていた。ああ、痛い。気持ちいい。痛い痛い。気持ちいい。けど、痛い。やっぱ痛い。すごく痛い。ああ、痛い。痛い。よく見ると村野さんは親指を傷に食い込ませていた。一センチほど、傷口を割って親指が入っていた。私の天井が、崩壊を始めた。ああ、このまま私をえぐり殺して。

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ここでのアヤは確かに感じてる、痛みを。でも、村野さんは違う。「痛くない」。それどころか気持ちいいのかも分からない。身体的な快楽と満足が分離していて、アヤは満足はするが、村野さんはたぶん違う。
これが一つの伏線だとするなら、非常に巧いと思う。
また、モコの存在も重要である。それから赤ん坊の存在も。

ホクトは赤ん坊を性欲の対象にして満足しているが、赤ん坊はたぶん違うし、むしろ嫌がっている。アヤはモコとの二度めのセックスに、拒否反応を起すけど、「それでも彼女に恥をかかせてはいけない」と思い、我慢する。これらは、ひとつの「ずれ」で、一方は満たされ、一方は違う。

村野さんは一切の感情を殺して、アヤにも淡白な態度をとり続ける。セックスしても近づかないし、だから、アヤは「好きです」という言葉に頼り続ける。
その言葉は、そのまま自分を満たそうとし、同時に村野さんに向けられています。まるでその言葉によって、村野さんと結びつこうとするように。
そしてアヤは、村野さんに殺してほしいと思うようになる。

一方でホクトは、相変わらず赤ん坊にチンコをおしつけたりしている。アヤは、「きっとホクトはものすごく楽なんだろうと思」う。
「私のように、相手の反応を気にする事もないし、相手が嫌がっても泣くだけだから、口を押さえれば見て見ぬ振りが出来る。」と。

果ては動物虐待まで出てくるこの小説には、それをはぎ取ってみると、今まで見たこともない「純愛」が姿をあらわす。
終盤でアヤと入籍までした村野さんは、やっぱり心を開いてくれない。アヤが入院しても見舞いに来ないし、退院したアヤが村野さんの家に行っても、村野さんはいつも通り、淡白である。
そして結末、アヤは突然消滅してしまったかのように、その独白を終える。

こんな純愛、今まで読んだこともない。Amazonのレビューでは、この作品に対し、「気持ち悪い」「芥川賞作家の文章じゃない」「下手くそ」「金原ひとみの人間性を疑う」など、とってもおかしな言いがかりをつけられました。
しかし、そういう人たちは、何にも読めなかったのでしょうか。本当に?
『世界の中心で、愛をさけぶ』や『恋空』なんかで泣いてる暇があるなら、『アッシュベイビー』を読んで純愛の概念をぶっ壊してほしい。
「ただきれいなだけじゃない純愛もある」んだと知ってほしいし、金原ひとみはもっと正当な評価をされるべきです。

村上龍の言葉を借りるなら、「歪んでいるが、とても美しい」小説でした。

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三日目に、ナツコが教えたらしく、モコが見舞いに来た。(中略)
「アヤに、傍にいてほしいの」
傍にいて欲しい、という気持ちは私にも何となくわかった。私だって今、村野さんにどれだけ触れたいか、どれだけ看病して欲しいか。どれだけ隣にいて欲しいか。どれだけ殺して欲しいか。
誰にこの気持ちがわかるだろうか。

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by 竹永翔一  at 15:22 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

おすすめの作家、アーンド、絶対読まなくていい作家

一日にこんな更新しちゃって……(笑)更新最近してなかったですし。
この記事では、おすすめの作家ひとり、個人的に嫌い、あるいは苦手な作家を。


平野啓一郎

この人はおすすめ。「三島由紀夫の再来」と謳われた(それは褒めすぎでしょうがね)作家です。初期の作品は三島から影響をうけた古臭い文体が特徴的。最近ではもっぱら実験的な作風ですが。好き嫌い激しいみたいなので、注意が必要かと。
『日蝕』『高瀬川』『顔のない裸体たち』『あなたが、いなかった、あなた』など。


保坂和志

この人もまた、なーんにも起こらない作品ばかり書く作家。なんとなくノスタルジックで、映像的な作風が特徴ですかね。
『プレーンソング』『カンバセイション・ピース』『小説の自由』『もうひとつの季節』などを。


ここから嫌い、あるいは苦手な作家をご紹介。ファンの方いたらすみません。


辻仁成

この人は本当に、大っ嫌いなんですよね(笑)○んだら?ってくらい嫌い。まず文章が気持ち悪い。なに時代とかの問題じゃなく、単に恥ずかしい比喩の連続と失笑を買う恋愛ばかり書きすぎ。最初に江國香織と、次に韓国の女性作家と、最近また江國香織とコラボレーションして小説を出すという、コバンザメみたいな作家。つーかなぜ江國香織はこんな男の小説を誉めるの? コラボすんの? と、まあ江國ファンとしてもいらない人。だいたいもう消えかけてるし。『冷静と情熱のあいだ』は江國、辻どちらの小説も読まなくてよし。

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by 竹永翔一  at 22:40 |  雑記 |  comment (1)  |  trackback (0)  |  page top ↑

再び・おすすめの作家

再びですね(笑)
とりあえず、今回は海外作家やすでに亡くなられた作家も含めて、おすすめの作家を紹介しましょう。


中上健次

先鋭的かつ土俗的な方法で、紀州熊野を舞台にした作品を多く書き、ある血族を登場させる「紀州サーガ」という土着的な作品世界を作りました。初期には大江健三郎から文体の影響をうけ、村上龍同様、女性に重点をおいた作品も多いです。好き嫌いわかれるでしょうが、すごくかっこいい小説ばかりです。
『水の女』『一八歳、海へ』『一九歳の地図』『岬』『軽蔑』などがおすすめ。

高橋源一郎

日本でもかなりレベルの高い作家。ポストモダン文学を書く作家ですが、その独特な小説世界には、驚かされました。小説の可能性を追求する作家です。
『さようなら、ギャングたち』『虹の彼方へ』『ペンギン村に陽は落ちて』など。ちなみに室井佑月の前夫。


島田雅彦

青臭い作品を描くのが得意みたいですね。高橋源一郎と同じポストモダン文学を書く作家。若い年代を書かせたら、うまいです。
『彼岸先生』『君が壊れてしまう前に』『優しいサヨクのための嬉遊曲』無限カノン三部作などを。


小林恭二

島田、高橋同様ポストモダン文学の作家。あまり知名度は

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by 竹永翔一  at 22:10 |  雑記 |  comment (1)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ナンバーワン・コンストラクション/鹿島田真希


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あの人は憎んでいない人のことも苦しめる。愛している人のことも。きっとそういう人なんだわ。あの人が誰かを苦しめること、悪に身を染めることに理由なんてないんだわ。それは快楽? いいえそれも違うわ。あの人はその類の人でもない。だって私に罰を与えたあの時のあの人は、どこかつまらなそう。つまらなそうで、しらけていたし、そして苦しそうだった。あの人の罰は性愛じゃない。性愛すらおそらく信じていない。彼はなにも信じていないわ。

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第135回芥川龍之介賞候補作。

上の引用を読んで、ものすごい異和感をもった人も多いと思います。
俺も、正直この作品は苦手なのですが、あえて紹介します。
会話から文体、メタファなどが異様に古臭い。会話に関しては、19世紀のロシア文学の翻訳調の文体を意識していたり、トルストイの小説のモチーフが使用されていたり、議論ばかりしていたりと、いろんな意味で時代錯誤的な小説です。
おかげで、読者に一切の感情移入を拒んでいる。ついでに、何だか可笑しな悪意まであり、そういう意味では、この作品は中原昌也の小説に近いような気がします。意外と笑いの感覚が似ているのかも。
こういう箇所があります。

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大抵の人間は無根拠を知ると、落ち着きをなくして苦しむ。自分のやっていることの無意味、志が取るに足りないということ、自身の存在への不信。それらは絶望につながる。今、彼はじわじわと無根拠に蝕まれつつある。

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中原昌也が小説で言っていることに似ていると思いました。

他には、鹿島田真希特有の、宗教上の贖罪と赦しがはいってくる。あと、結末の下世話さ。「建設」が重要なテーマです。登場するS教授は建設史家ですし。
登場人物はおもに四人(S教授、M青年、少女、N先生)なのですが、彼らの関係がかなりアンバランスで、あちこち行ってしまう。
笑えるのは、やはりラストと、彼ら登場人物の会話および独白。いまどき、そんなこと言う奴いないだろ、という感じですが、そのばかばかしさが面白い。
たとえば、この場面。

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「これは彼女へのプレゼントです。これからお祝いするんですよ。今日はきっと二人の記念日になる。そんな気がします。」
N講師は恍惚としてそう答えた。
「まあ、どんな記念日でしょう。とにかくおあがりになって」
N講師と母親がプレゼントの包み紙を開けるように促すので少女は袋を開けた。ぐったりした子猫が震えながら、弱々しい足取りで袋から出てきた。少女の体に悪寒が走った。
「どうだい。素敵なプレゼントだろ? 君が以前猫を飼いたいと言っていたから買ってきたんだよ」
「そうね」
少女は青ざめて頷いた。
「なんてかわいい子猫ちゃんなんでしょう。種類はなんですの」
「アメリカンショートヘアです。血統証つきですよ」
「こんな高価なプレゼントをいただけるなんて、うちの娘は幸せものね」
「お母さん。この猫具合が悪そうだわ。看てあげて」
「はいはいわかりました。お前ったら私と先生が話をしているとすぐに遮るんだから。きっとやきもちね。台所にタオルを敷いて寝かせてあげましょう」

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このような会話が、まるで「エルム街の悪夢」のように続いて、ちょっと目眩がしますね。

それから、ラスト1頁。
ここは秀逸ですね。S教授はカフェで働いている少女が好きだったのですが、最後がそのカフェのシーン。
S教授がホットサンドからこぼれたターキーとレタスについて文句を言うシーン。これだけで笑えるのですが、そのあとがもっと面白い。

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彼はまさかと思って走ってスタンドまで行った。
「このサンドイッチを作ったのは誰だ!」
彼は怒鳴った。
「私だけど、文句ある?」
彼女ではなかった。浅黒い、背の高い女性が胸をはって出てきた。
「このサンドイッチのマヨネーズはなんだ! あんなに楽しみにしていたのに。気が狂いそうだ!」
(略)
女性は彼に平手打ちを食らわした。
「馬鹿じゃないの。変態」
彼女は相変わらず胸をはっていた。きっぱりと一直線に切りそろえられた前髪の下から、大きく美しい瞳が彼を見つめていた。教授は恥ずかしくなって、下を向いたが、彼女のネームプレートを見ることを忘れはしなかった。

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ここまで読まされて、このオチかよ! と、突っ込みたくなりますが、まあ面白いですね。
最後にS教授の心変わり、という。

ただこの作品には決定的な問題があって、それは最後のほうで、この作品の意図をすべて説明してしまっていることです。メタファとか何から何まで。
これは小説としては、かなりの欠点でしょう。
「人の心は都市のようだ。文節と更新を繰り返す。N講師は赦しという言葉によって、無意識から意識へと更新された」とか、「人はその歩みにまばゆいばかりの悦楽を得る。そして死すべき運命であることを忘れる」とか、お前いったい誰!!?? と言っちゃうような文体で。
なぜ、こんなことをしたのか考えると、これは第135回芥川賞候補作ですね(ちなみにこの回には中原昌也も候補でした)。つまり、これは鹿島田真希なりの、芥川賞への対策だったのかもしれません。なにしろ選考委員には、石原慎太郎という壁があるので(それにしたってこれはひどいでしょ。おまけに、中原昌也と共に一番に落とされた)。

だからということでもないですが、鹿島田作品のなかではテーマがわかりやすく、建設理論を人間のありようとか世界の構造のメタファとかいうことを、たぶんわざと解るようにしているので、さほど難解な作品ではありません。
それに、この作品はちっとも映像的ではなく、小説でしか出来ないことに果敢に挑戦しているとも思うので、あまり文句は言いません。

でも、鹿島田作品のなかでは中の下というクラス。
初心者には無難に、『六〇〇〇度の愛』などをおすすめしますがね。

基本的には、読みごたえある作家ですし。

by 竹永翔一  at 21:03 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

とおくはなれてそばにいて/村上龍


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冷たいシャワーを浴びているうちに脈博と同じリズムで左耳が痛み始めた。さっき頭を打ったせいだろうとニキは思った。部屋に戻るとレダは二人の衣服をきれいに畳んで椅子に置いている。枕は黴臭く、シーツは湿って、レダの足は暖かい。
「抱いてくれないの? こんな部屋じゃいや?」
「疲れてるんだ」
「こんな宿しかないのよ」
「レダと一緒ならいいさ」
「朝まで一緒なんて初めてね」
リオに比べると静か過ぎてニキは眠れなかった。痛みはまだ続いている。

『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』より

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村上龍の『村上龍恋愛短編選集 とおくはなれてそばにいて』を読んだのは、結構むかしです。
まえがきで、村上龍は「それほど多く恋愛小説を書いていないし、恋愛小説と明確にカテゴライズできるような小説も書いてこなかった」と言っているとおり、この短編選集の作品はみな、「恋愛小説と明確にカテゴライズでき」ないものばかりです。
そもそも村上龍に、あまり恋愛小説家というイメージもありませんし。
全体的に、初期の作品のほうがパワーのある彼ですが、この本には初期短編も含まれています。上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』もそのひとつ。

全19編収録されている本作でのお気に入りは、『そしてめぐり逢い』『受話器』『彼女は行ってしまった』『シャトー・マルゴー』上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』などです。

どの作品も、泥臭くて、退廃的にみえます。
『そしてめぐり逢い』の主人公はさまざまな女とセックスし、金もある。しかし高校時代のあこがれの女の子が裏ビデオに出ているのを知って、「がっくり」くる。
『受話器』の女はホテルにデリバリーされるSM嬢で、彼女は自分を「寄生虫のようなものだ」と言う。足フェチの男の口に受話器をつっこんだときに、「音」が聞こえてくる。
『左腕だけは君のもの』の男は、ニューヨークで会った女と関係をもち、写真を撮る。彼女は、「左腕を両手で抱きしめ」ていて、男は左腕だけはその女のものだと、今も思っている。

どの短編も、後味のいいものではないかもしれません。しかしいずれの短編にも共通しているのは、「個人的な希望」のような気がします。希望と呼ぶにはあまりに曖昧な「希望」。
それはジャズであったり、写真であったり、受話器から聞こえる音であったり、一度きりのセックスだったりする。しかし、それらは、この小説のなかではちゃんと機能している。
なぜ、「個人的な希望」なのか。それは彼らが、個人として生きようとしているからかもしれない。あるいはまた、自由だから。

村上龍はここ数年、希望についての小説を書き続けています。
それがすべて成功しているわけでは勿論ないですが、村上龍という、ある意味で「寓話的な作家」の書く物語は、常に時代と呼応しあっていると思います。
そういう意味では、一番成功している作家なのかもしれないですが。

また、この短編選集では、女性がおおきな存在感をもっています。どちらかと言えば、男よりも女のほうがさっぱりしているというか、見ていて逞しいです。
それはこの本の帯に書かれた、「女はセンチメンタルな生きものではない。問題は男の方なのだ」と重なります。

最近の村上龍のパワーは、ちょっと下降しつつありますが、この小説にはまだそれが残っていて、初期のファンの方でも、楽しめるんじゃないかと思います。

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あなたとどこで出会ったのかどうしても思い出すことができない。あなたはわたしに近づいてきて、何か印象的なことを言った。だがあなたが具体的に何を言ったのかは思い出せない。わたしを誰かと間違えたような、おぼろげだがそういう記憶もある。
ただわたしは絵はがきを書いてくれる恋人に子供の頃から憧れていたから、あなたと出会えたことがうれしかった。わたしはあなたからの絵はがきを待つために海の傍に住みたいと思った。(略) その他には何もしないし、友人と長電話することもない。

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by 竹永翔一  at 11:03 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

純文学的なHIP-HOP

神門(ごうど)、というHIP-HOPのアーティストをご存じだろうか。
俺もついこのあいだ知りました。

「日常に音楽を」をコンセプトとして、価格が約1000円でアルバムをリリースする等、精力的に活動するHIP-HOP集団/レーベル『Da.Me.Records』のMCです。
9月に『三日月』というアルバムをリリースしています。


この『三日月』は、約20曲近い「恋愛」をコンセプトとしたアルバムなのですが、この中の一曲、『重い出』が、文芸誌『新潮』で取りあげられていました。

文芸誌にHIP-HOPですよ、なかなかすごいと思います。


実はまだ、俺もアルバムを聴いていないので、今回は紹介だけ。

彼の書く歌詞には、『重い出』という曲をみる限り英語があまり使われていません。
HIP-HOPは、もちろんアメリカのニューヨークが最先端を行っています。現在のHIP-HOPにはメロディー重視(つまりノリ重視)のHIP-HOPと言葉を重視したHIP-HOPがあるらしいです。
神門はあきらかに後者なのですが。
彼の書く歌詞は、「純文学的」などと言われています。
『重い出』の一部を紹介しましょう。

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by 竹永翔一  at 18:33 |  音楽 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

蹴りたい背中/綿矢りさ


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さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。

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第130回芥川賞受賞作。

あまりに有名なこの出だし。すばらしい悪意にみちてますね。「(苦笑)」があるのが、余計に痛々しくてせつない。

『インストール』は正直、途中で読むのを辞めてしまったのですが、この作品はとっても楽しめた。
まず、この文章。感覚に毛穴ってもんがあるなら、そこから汗みたいに流れでてくる言葉が綿矢りさの言葉だろう。

主人公の長谷川初実は、高校に入って友達をひとりも作っていない。「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌」というスタンスの下、単独行動者として学校で肩身のせまい毎日をおくる。クラスにはもう一人の余り者、「にな川」がいて、何となく彼の家に行ったり話したりしている。
友達ではない。でも恋人でもない。

この「友達でも恋人でもない」関係が続くわけですが、おそらくこの作品で重要なポイントのひとつがそれでしょう。
すっごく微妙な関係。恋愛感情みたいなのが湧いたとか、作中では説明されていません。
初実はにな川と理科の実験で同じ班になって、彼がモデルのオリちゃんのファンであることを知るのだが、実は初実は中学のころにそのモデルに会ったことがあった、たまたまではあるが。
にな川はそれを聞き、なぜか「魂も一緒に抜け出ていきそうな、深いため息を」つく。
にな川はこの場面でちょっとした奇行にでます。教科書に線を引きまくったり、ペン先を教科書に押しつけたり、初実をみつめたり。
重要な箇所はここで、彼は「がらんどうの瞳で」初実を見つめていた。初実はそれを、「ちょっと死相出てた。」と形容する。「私を見ているようで見ていない彼の目は、生気がごっそり抜け落ち」たように「完全に停電していた」にな川の瞳。
そう、にな川は初実ではなく、初実の向こう側にいるオリちゃんを見つめていたのだ。
その様子を、「ちょっと死相出てた。」と初実は言ったが、それはたぶん、その瞬間彼は死んでたんじゃないだろうか。向こう側にいるオリちゃんを見つめるために。
遠い彼方をみつめるその姿をこのように描写した綿矢りさはすごい。

個人的に、中学生の初実が無印のカフェでオリちゃんと外人カメラマンに会ったときの場面が印象的でした。「私」は毎朝朝食がわりにそのカフェで試食用のコーンフレークを食べているのだが、ある日偶然オリちゃんと外人カメラマンに遭遇した。
二人は初実に近づき、不躾ともとれる態度でふるまう。この場面の初実は、あきらかに緊張している。でもそんなのおくびにも出さない。むしろ虚勢を張っているかのような態度で、二人の「お酒くさい」大人に接します。オリちゃんは「もののけ姫みたい」な「私」の足を誉める。初実は内心嬉しいのですが、態度にだしません。大人っぽく振る舞おうとして、背伸びしている感があります。
そして、カメラマンはオリちゃんに、コーンフレークを「なんだかエッチな」態勢で食べさせ、彼は初実の口にもそれをもってきます。「私」は、「あんまり食べたくない」が、「しらけた空気が怖い」し、うまくいけば「この人たちの仲間になれるかもしれない」と、オリちゃんのまねをして食べますが、カメラマンの「男の人は、気味悪がっていた」。
これは、カメラマンの男が初実の意図する気持ちをわからないから起こった、決定的なディスコミュニケーションです。さらに、「私」が「あわてて媚びるような照れ笑いを作った」とたん、オリちゃんの「笑顔の温度が低く」なる。ふたりはすっかり「酔いが醒めたという顔をして」、「店を出」た。そう、彼らは大人で、初実は中学生だ。仲間にはなれない。

非常に印象にのこりました。こういう表現の仕方もあるのか、と。

初実はにな川の家に来た二回目に、オリちゃんのアイコラを見つけるのですが、それを見て彼女は、無性ににな川の「背中を蹴りたい」と思う。この描写も非常にすばらしくリアルで、目をみはります。

これは一種の、ゆがんだ性欲なのでしょう。

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彼の背中で人知れず青く内出血している痣を想像すると愛しくって、さらに指で押してみたくなった。乱暴な欲望はとどまらない。

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次に印象に残ったのが、この場面と結末です。

帰ろうとして立ち上がった初実は、「膝から下の力が抜けて、スローモーションのような尻もちをつ」く。
なぜ尻もちをついたのか。

結末、ベランダで寝ているにな川の背中を、蹴ろうとします。しかしにな川に気づかれそうになり、とっさに「ベランダの窓枠」にあたったんじゃないと嘘をつきます。窓枠をみつめるにな川。それから、「私の足」をみる。
気づかない振りをしてそっぽを向いていたら、「はく息が震えた」。

一体、何なのか、考えてみるとすぐわかりました。
初実は興奮していたのです。自分のあらがいがたい欲望に。
「いためつけたい。蹴りたい」背中をもつにな川に。
いずれの場面も、初実の興奮を表していたのでしょう。
結末からは、緊張と激しい何かが伝わってきます。

これらすべてを、綿矢りさのあの「日本語」で描写されたら、たまったもんじゃありません。
積み木を崩すようなその文章からは、「愛しい」よりも、「もっと乱暴な」気持ちがありありと浮かんできます。

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「痛いの好き?」
痛いの好きだったら、きっともう私は蹴らなくなるだろう。だって蹴っている方も蹴られている方も歓んでいるなんて、なんだか不潔だ。
「大っ嫌いだよ。なんでそんなこと聞くの。」

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by 竹永翔一  at 17:58 |  書評 |  comment (4)  |  trackback (2)  |  page top ↑

左の夢/金原ひとみ (すばる11月号)


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明日はいくつ? 毎日、寝る前にそう聞かれて、朝になると俺が言った数だけ炊飯器に入れてあった。あつあつのおにぎりを、いつも家を出る前にリュックに入れて、朝飯に一つ、昼に二つか三つ食べていた。あの頃は昼飯のおにぎり二つとコンビニで買ったカップラーメンの組み合わせが主流だったけど、最近はコンビニのおにぎり二つで済ませることが多い。毎日夕食を作って待っていた彼女はもういない。

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すばる11月号掲載の金原ひとみの短篇、『左の夢』を読んだ。
冒頭を読んでいて、どうもおかしいと思いながら読み進めていると、何が「おかしい」のかわかった。
語り手が「男性」だったのだ。

主人公の「俺」は、三年間つきあった恋人がアパートを去ってから、常に彼女のことが気にかかっている。
朝、起きたら写真の彼女に向かい「おはよ」と言い、出勤時には「行ってきます」と言う。「俺」は工場で働いていて、現場の先輩と仲がいい。昼休み、先輩が昼飯に誘うのだが、最近の「俺」は毎日コンビニのおにぎりばかりである。

語り手の「俺」の意識は、否応なく恋人と自分とのまわりを迷い続けている。金原ひとみの小説の主人公たちは、自らの自意識にとぐろを巻きながらも、その堂々巡りのなかから、なかなか抜けだせない。この主人公も例外ではなく、出て行った恋人のこと、というより、「恋人といた自分」を思い続けているようにみえます。
一言でいえば、「俺」はダメな男です。電子レンジの使い方もわからないし、ひとりになった途端、「何をどうしたら良いのか分からない」。「借りてるサラ金の一番近いATMがどこにあるのかも知らない」というのだ。

「俺」は「工業系の高校を中退して、美容師の見習い」をしていたが、ある日交通事故に遭う。左半身に障害が残るかもしれない、と宣告され、上京して美容師になるために必死でリハビリを頑張る。無事に上京して職につくが、あっさりクビになってしまう。「無職になりスロットばかりやってる内に家賃も光熱費も滞納が続いて、当初は簡単に返せるはずだった借金」が「どんどん非現実的な額に」膨らんでいく。そんな時に、恋人と知りあった。

語り手は「左」に、何らかの執着があるように思えます。この作品では、久々に「リストカット」「自傷行為」がモチーフとして使われているのですが、語り手の「俺」は恋人と別れてから、左手首を切ったりします。
その姿は、辛うじて自分のバランスを保とうとしているようにもみえる。
まるで恋人を失ったことにより、バランスを崩しているように。

作中で「俺」の恋人は実際に姿を現しませんが、結末、ある奇妙なかたちで現れます(もしくは、表れる)。それだけのためにこの小説が書かれたようにも思えるし、単になんの意味もないのかもしれない。

恋人は、語り手のモノローグの中では途中小説家になるのですが、そのことは金原ひとみのデビュー時を示しているようです。
実際、これは私小説風な作風で、それを男性側からアプローチしているみたいだ。

結末ちかくで、「俺」は恋人の残していった化粧品を顔じゅうに塗りたくって、口紅を引き、彼女の匂いを思う場面があるのですが、そこが異常にリアルなのです。語り手は「俺」なのに、まるで三人称のような印象があります。じっと、その光景を見つめているような……

すばらしくグロテスクで、巧い恋愛小説です。
「俺」は結局、振られるのですが、解放されたと思う反面、これからどうしていけばいいか分からない。
これは、上に書いた、ひとりで「何をどうしたら良いのか分からない」と繋がります。作中では、語り手は終始なさけなく描かれているのですが、これは「おにぎり」をめぐるモノローグではより顕著に表れているみたいです。「俺」はたまに、恋人の「明日はいくつ?」という、幻聴をききます。「明日はおにぎりいくつ?」と。これにより、語り手の恋人に対しての拘泥、情けなさをより深く、どうしようもないものとして描くことに成功している。

結末は、たぶん金原ひとみとしては異例な終わり方だろうが、それもまたこの人らしい。
「俺」はあれを読んで、どう思ったのだろうか。

二人の電話での会話が、思い起こされる。

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「もしもし」
「……俺だよ」
「……久しぶり」
「なあ俺さあ、もう駄目になっちまいそうなんだよ」
「……」
「もう駄目になっちまうよお前がいないと駄目なんだよ。お前だって俺がいないと駄目だろ? なあ戻ってきたいんだったらいつでもいいって、言ってるじゃんよ。なあお前さあ、誕生日に何欲しい?」
「今、仕事中なの」
「なあ俺待ってるから。誕生日ケーキ買って待ってるから。────」

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by 竹永翔一  at 00:40 |  書評 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

続・現存する作家で、おすすめしたい人たち

次は、癖のある、一般の人は敬遠しがちな作家たちを。


◯金原ひとみ


綿矢りさと共に芥川賞を最年少で受賞した作家。作品を追うごとに確実にレベルアップしてる小説家だと思います。
その内容は暴力的でグロテスクではありますが、同時に言い換えられない「哀しみ」も内在します。
『蛇にピアス』より、『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』を。


◯村上龍


村上春樹と共にW村上ともてはやされた作家。現在でも人気も実力もありますが、出来不出来のめだつ作家でもある(笑)
作品の多くは暴力とセックスに満ち、退廃を予感させますが、近年では「希望」を集中的に描いてる作家です。とりあえず初期の『限りなく透明に近いブルー』『コインロッカー・ベイビーズ』『トパーズ』『69』、近作では『村上龍映画小説集』『イン ザ・ミソスープ』『ラブ&ポップ』などを。


◯中原昌也


めちゃくちゃ癖の強い作家です。読者に絶対に何がなんでも感情移入させず、共感させない。意味のないストーリーとも呼べない小説を描く作家。しかし、ちゃんと物語。個人的に日本の作家で評価されてしかるべき人物でしょうが、文壇にも敵が多いよう(笑)
『子猫の読む乱暴者日記』『あらゆる場所に花束が……』を。


◯舞城王太郎


何というか、今いる若手の作家で一番活躍してる、実力もあるすばらしい小説家です。今までに、少なくとも今までの日本にはなかった手法で新たな世界を築き続けています。暴力的な表面に比べ、中身はふわっと、柔らかく、愛にみちみちています。
初めてなら『煙か土か食い物』、慣れたら『阿修羅ガール』『好き好き大好き超愛してる』を。


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by 竹永翔一  at 00:31 |  雑記 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

現存する作家で、おすすめしたい人たち

俺の好きな、おすすめの作家を今回は紹介していきたいと思います。
日本の小説家って、思うんですが、二種類あります(どこの国でもそうかもしれないけど)。
保守的な作家と、前衛的な作家です。これは大きく分類した場合のことで、このふたつに当てはまらない小説家もいるかもしれませんけどね。

まずは、割と万人に受け入れられる、でもレベルの高い小説家を。


◯江國香織

名前を知っている人も多いと思います。日本の女流作家でもっとも売れているだろう作家のひとりです。
彼女の手にかかれば、どんな女性でも魅力的でいとおしく思えてきます。文体も非常に読みやすく、でも最近は作品にそれなりの「クセ」が出てきたような気もします。昔もそれなりにありましたが。
まずは、初期作品なら『きらきらひかる』か『神様のボート』、近作なら『ウエハースの椅子』『号泣する準備はできていた』を。


◯川上弘美

非常にけだるい文章で、ファンタジックな世界と現実を行き来する作品を書きます。特に短編はすばらしいです。女流作家の中でも目を曳く魅力をもつ小説家だと思います。
『溺レる』『センセイの鞄』などを。


◯綿矢りさ


第130回芥川賞を史上最年少で受賞した作家。古風だけれども、何だか見たことないような新鮮な才能だと思います。その、たくらみに満ちた文章には脱帽ですね。
まあ最初は無難に『蹴りたい背中』から。次に『夢を与える』を。


◯村上春樹


日本を代表する世界作家。とんでもない構成力と平易な文章は、日本随一の作家でしょう。彼の作品に満ちるパワーには、不思議なちからが内包されているようです。
まずは『風の歌を聴け』から。作風はむかしと今じゃかなり変わっているので。

by 竹永翔一  at 23:51 |  雑記 |  comment (1)  |  trackback (0)  |  page top ↑

はじめまして

はじめまして。
竹永翔一です。

俺のブログへようこそ!!
このブログは、まあ、小説を紹介するためのブログです。
『ニッポンの小説』ってタイトルだけど、普通に海外文学も紹介していきます。あとたまに、映画や音楽も。


いま、日本の小説は実際問題として、売れていません。
特に『純文学』というジャンルの小説は。
日本の小説には、『純文学』と『エンターテイメント』というジャンルが存在します。このジャンル分けに意味があるのかわかりませんが、とにかく、そういうジャンルがあるのです。
ここでは『純文学』を紹介していきます。『純文学』は一言でいうと、「芸術性を重んじた、人間やそれを取りまくものを描く小説」のことです。
「芸術」って聞いて、はあ? とか、意味不明、とか思ったそこの君!!!!
そう、君。待って行くのはまだはえ~から。
小説ってとにかくおもしろいものなんだよ!!!!!も~まじで!!!
だのに何で売れないんだ!!!っていう嘆かわしい事実のために、このブログでは俺の読んできた小説について、少しずつ記事として残していこうと思います。
本当は小説って、ケータイとかじゃ味わえない楽しさがある。それを、ちょっとでも伝えられたらな、って。
だからそこの君!!!
何か適当に記事開いてみるだけでいいから見てって。
くだらないかもしれないけど。

とにかくそんな感じでやっていきます。
by 竹永翔一  at 02:55 |  雑記 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑