2007/10/27
アッシュベイビー/金原ひとみ
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恋する肉体同士に中途半端な距離は、クソだ。血が噴き、傷をえぐる関係が欲しい。つまり愛する人よ、私を殺せ!
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芥川賞受賞第一作。
金原ひとみの第2作。読んで、好きという人はあまりいないとは思います。しかし、この作品は傑作です。
主人公の「アヤ」は、キャバクラ嬢で、男性を魅了するだけの容姿をもっている。彼女は大学時代の同級生の「ホクト」とルームシェアをしており、アヤはホクトがなぜ自分に性的な興味を抱かないのか不思議に思うのですが、実はホクトは、赤ん坊にしか性欲を抱けない幼児性愛者(ペドフィリア)だった。
アヤは子供が嫌いであり、ホクトは子供にしか性欲を抱けない。
アヤの子供嫌いは、読んでいて疑問を覚えるほど凄まじい。冒頭部分から、いきなりその頭角を現します。
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前を歩いてるガキがチラッとこちらを振り返り、いぶかしげに私を見た。中指を立てたけど、奴にはその中指が何を示すものなのか理解出来なかったらしい。
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またアヤは、「ヤリマン」であり、合コンで知りあった「モコ」という女の子とも関係をもつ。この放蕩っぷりは素晴らしいです。アヤは見境なく、やりたいと思った相手とやってしまう。何も考えないし、あとくされなく事を済ませようとしますが、このモコというキャラクターが後半、アヤを煩わせます。
ある日アヤの働く店に、ホクトの会社の同僚である「村野さん」がやってくる。「こんなに完璧なフォルムの手は初めて見た、というくらい」美しい指をもつ村野さんに、アヤは惹かれていく。
そんなとき、ホクトがどこからか赤ん坊を誘拐してきて、それを性欲の対象とします。アヤはその赤ん坊の存在に苛つく。
アヤはこの後、自慰をしながらなぜか自分で自分の太ももを果物ナイフで突き刺します。その傷がまさしく、男性に欲されるべき陰部であるかのように。
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きぇえー。私は叫んで昨日オレンジを食べた時に使った果物ナイフをつかんで左の内腿に突き立てた。私の肉体が反乱を反乱を起こした。(中略)まあ、いいや。どうせ私はなにやったって間抜けなんだから。死ねやクソ、私はそう言うと果物ナイフを引き抜いた。勢い良く飛び出した血を顔面にくらって、私は面食らった。血を吐く傷口なんて、マンコみたいだ。嗚呼、マンコ誕生。
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アヤはマンコを傷に見立てます。そう、マンコとは「傷」であり、痛みなのです。
『アッシュベイビー』を読んで、下手くそだと思った人は、あまりにも無邪気。実は、この小説は周到に考えられて作られた傑作なのです。
たとえば、この作品には三ページに一回の割合で性描写が描かれていますが、そのすべての性描写には、何かがごっそり抜け落ちています。何かが決定的に欠けているのです。
それは、アヤと村野さんの初めてのセックス描写が伏線となっています。
二人のセックスは、基本的に「ずれ」が生じている。
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村野さんはやっと服を脱いで、私の顔の横に手をついて挿入した。充分に濡らされたマンコはずぶずぶとチンコを受け入れ、「すっげーユルい」とか思われてるかも、なんて不安がよぎった。もっとシマリが良くて、チンコが抜けないくらいのマンコだったらいいのに。脚をカエル型に持ち上げながら、村野さんはまた傷を指で押さえた。血に塗れても、その手は卑屈なほどに、優美な微笑みをたたえていた。ああ、痛い。気持ちいい。痛い痛い。気持ちいい。けど、痛い。やっぱ痛い。すごく痛い。ああ、痛い。痛い。よく見ると村野さんは親指を傷に食い込ませていた。一センチほど、傷口を割って親指が入っていた。私の天井が、崩壊を始めた。ああ、このまま私をえぐり殺して。
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ここでのアヤは確かに感じてる、痛みを。でも、村野さんは違う。「痛くない」。それどころか気持ちいいのかも分からない。身体的な快楽と満足が分離していて、アヤは満足はするが、村野さんはたぶん違う。
これが一つの伏線だとするなら、非常に巧いと思う。
また、モコの存在も重要である。それから赤ん坊の存在も。
ホクトは赤ん坊を性欲の対象にして満足しているが、赤ん坊はたぶん違うし、むしろ嫌がっている。アヤはモコとの二度めのセックスに、拒否反応を起すけど、「それでも彼女に恥をかかせてはいけない」と思い、我慢する。これらは、ひとつの「ずれ」で、一方は満たされ、一方は違う。
村野さんは一切の感情を殺して、アヤにも淡白な態度をとり続ける。セックスしても近づかないし、だから、アヤは「好きです」という言葉に頼り続ける。
その言葉は、そのまま自分を満たそうとし、同時に村野さんに向けられています。まるでその言葉によって、村野さんと結びつこうとするように。
そしてアヤは、村野さんに殺してほしいと思うようになる。
一方でホクトは、相変わらず赤ん坊にチンコをおしつけたりしている。アヤは、「きっとホクトはものすごく楽なんだろうと思」う。
「私のように、相手の反応を気にする事もないし、相手が嫌がっても泣くだけだから、口を押さえれば見て見ぬ振りが出来る。」と。
果ては動物虐待まで出てくるこの小説には、それをはぎ取ってみると、今まで見たこともない「純愛」が姿をあらわす。
終盤でアヤと入籍までした村野さんは、やっぱり心を開いてくれない。アヤが入院しても見舞いに来ないし、退院したアヤが村野さんの家に行っても、村野さんはいつも通り、淡白である。
そして結末、アヤは突然消滅してしまったかのように、その独白を終える。
こんな純愛、今まで読んだこともない。Amazonのレビューでは、この作品に対し、「気持ち悪い」「芥川賞作家の文章じゃない」「下手くそ」「金原ひとみの人間性を疑う」など、とってもおかしな言いがかりをつけられました。
しかし、そういう人たちは、何にも読めなかったのでしょうか。本当に?
『世界の中心で、愛をさけぶ』や『恋空』なんかで泣いてる暇があるなら、『アッシュベイビー』を読んで純愛の概念をぶっ壊してほしい。
「ただきれいなだけじゃない純愛もある」んだと知ってほしいし、金原ひとみはもっと正当な評価をされるべきです。
村上龍の言葉を借りるなら、「歪んでいるが、とても美しい」小説でした。
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三日目に、ナツコが教えたらしく、モコが見舞いに来た。(中略)
「アヤに、傍にいてほしいの」
傍にいて欲しい、という気持ちは私にも何となくわかった。私だって今、村野さんにどれだけ触れたいか、どれだけ看病して欲しいか。どれだけ隣にいて欲しいか。どれだけ殺して欲しいか。
誰にこの気持ちがわかるだろうか。
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