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リリイ・シュシュのすべて/岩井俊二監督作品


監督・脚本・原作/岩井俊二

主演/市原隼人 忍成修吾 蒼井優 伊藤歩

現実に救いなど、ない。それは多分間違ってはいないのだと思う。ごく一部の人には、救いのない人だってたくさんいるはずだ。いやもしかしたら、皆そうなのかも。皆救われないのかもしれない。
『リリイ・シュシュのすべて』を何度となく観た。
絶望的だと思った。
初めて観たとき、エンディング・シーンで救われた気がした。だって、あまりに綺麗だったから。
ひとびとは、皆清澄だったから。
でも、改めて観て、思った。絶望的だと。救いなどないと。
「なぜなら僕も、きっと、あなたと同じ、痛みの中にいるから。」
だから俺たちは『呼吸』する。「生きている!」。
それしか生きるということを、実感できないはずだ。誰かがそれを気づかせてくれるかもしれない。この映画のばあい、『リリイ・シュシュ』が。

岩井俊二は、映画、というか映像を使って、徹底的に「美」を追求する監督なのだと思った。もともとはそういう監督だったのだと思う。次第にそれではダメだと思い、『スワロウテイル』を撮ったのだと思いますが、結局は「綺麗」に収束したように思います(勿論、あれもいい映画ですが)。
でも、この映画は違う。明らかに、それまでの「映像作家・岩井俊二」作品のなかでも異質で、特異で、確実に彼の一連の作品(『undo』『PiCNiC』『スワロウテイル』など)の中で、一番だと思います。彼は映像で「美」を追求することによって、確実にある地点に到達したのだと思います。いわば、「美」が岩井俊二作品を支えており、それが持ち味でもあったのですが、この作品はその「美」がとんでもないパワーを発散していて、空気のすきまもない。ドビュッシーが流れる背景に、レイプシーン。夕陽のなかの叫び、カイトの飛ぶ無機感。
作中では、「エーテル」という単語がかなりの頻度で出てきます。「エーテル」とは、かつて物理学の分野で信じられていた世界を満たす物質のこと。
「エーテル」は色でわけられるらしく、赤が「絶望」、青が「希望」。
この作品はさし詰め、「紫」といったところか。

難しい作品だと思うかもしれませんが、この映画は青春映画です。そして、俺がいままで観てきた青春映画の中でも、極上の作品。日本人がこんな映画を造れた(創れた?)だけでも、すごいことだと思います。
主人公は蓮見雄一。蓮見はかつての親友・星野脩介に慢性的にいじめられており、彼の唯一のこころの拠り所は、『リリイ・シュシュ』の歌だった。かつて、星野に教えられたアーティストで、星野は小学校のクラスメイトだった久野陽子にその存在を教えられる。
星野は中学のクラスメイトの津田詩織のエロ動画を撮影し、脅して援助交際させる。津田は次第に蓮見にひかれ、蓮見は久野にひかれる。
そんな中、久野は星野たちのグループにレイプされ、津田は自殺する。蓮見は『リリイ・シュシュ』のライブ会場で、星野と遭遇し、ライブ終演後、星野を刺殺する。
あらすじを説明しようとしたら、だいたいこうなる。しかし無論、あらすじに意味はないです。映画を観ないことには、どれだけこの映画が優れているのかわからない。
サブタイトルとして、『14歳のリアル』が掲げられたこの映画は、つまりは作中のリアルであり、決して俺個人の(14歳のころの俺の)リアルではない。事実俺はこんな経験したことがない(友達にはいますが)。いや、映画を観たことによって、すでに「経験した」のかもしれないが。映画自体が、すでに抱えきれないくらいの「リアル」を持ち、つまりそれは、たぶん、作品中の人物たちが感じているだろう「リアル」です。それだけが、確かなことでもあります。

この映画を観て、「あざとい」と思う人も多いと思います。実際いろんな面において、この映画はあざといです。というか、岩井俊二の作品は(たぶん)すべて「あざとい」です。
それが嫌だ、という人もいるでしょうが、でも、それにしたってすごいことです。俺は、フィクションにこそ他作品にない価値があると思っています。
それは現実よりずっと、忠実で、確かだと。
「死」を描くにしても、いろんな描き方がありますが、この映画は特にその点に関しては秀逸です。
津田が自殺したとき、それは飛び降り自殺だったのですが、飛び降りる場面は撮られていない。そればかりか、その後の蓮見や星野、ほかのクラスメイト達も誰もが(津田のことを好きだった男子生徒でさえ!)、彼女について一切触れません。まるで、最初からそこにいなかったみたいに。
ぞっとします。
「死」は、世界でもっともひどいディスコミュニケーションであり、またコミュニケーションにもなりうるかもしれない。
星野が殺された後もそう。クラスメイト達は話題にもしない。
逆に、ネットの世界(リリイ・シュシュのファンサイト)では、話題になったりする。それは星野がリリイのライブ会場で殺されたこともありますが、なぜ、そうなってしまうのでしょうか。
ネットという匿名の世界で語られる「死」は、いつだって記号でしかないです。いや、岩井俊二の描く世界はいつも、ある種の「記号」ですが。
とにかく、作中人物たちは「死」について語らない。語られるのは(あるいは、語れるのは)、ネットの世界だけです。
ネットに「本当のもの」があるのか知らないけど、少なくともこの映画にはないように見える。
映画内の『リリイ・シュシュ』のファンサイトでは、皆リリイを崇めている。素晴らしい「存在」として扱う。ファンサイトの管理人である蓮見は、そこに来る『青猫』というハンドルネームの人物と心を通わせます。
この『青猫』は実は星野で、リリイのライブ会場にて、蓮見はリリイ・シュシュの「すべて」を知る。そう、星野が『青猫』であると知ってしまった。
唯一現実からかけ離れた存在である『リリイ・シュシュ』に希望を抱いていたのに、『青猫』が星野であったことがわかって、蓮見は結局のところ『リリイ・シュシュ』は架空の存在であることに気づく。
星野が『青猫』だったという現実が、蓮見を突き動かしてしまった。現実と接点をもってしまったから。

「エーテル」は最初、青だった。そしてまっ赤になる。エンディングで、また青になる。それが混ざって、「紫」になった。
俺にとって『リリイ・シュシュのすべて』は、そういう映画です。紫色。
希望なんて絶望と混ざりあってしまう。どちらが勝るでもなく、混ざりあう。
これほど、絶望的なことはない。

それでも、この映画は俺にとって必要な映画、最高の映画です。
岩井俊二は「美」のちからを最大限に活用し、いままで誰も撮れなかった青春を撮った。
蓮見は優しくて臆病だった。星野は大人しい子だったが、豹変した。久野はドビュッシーと『リリイ・シュシュ』が好きで、津田は純粋で粋のいい子だった。
俺も、たぶん、彼らと同じなのだろうと思う。無力で、子供で、だから架空の何かに頼る。救いを求める。
でも、実際のところそんなものは、どこにもないのでした。それでも俺は歌を聴くけれど。誰かを頼るけれど。救いを求めるけれど。
だからこそ、『リリイ・シュシュ』は歌うのだろうけど。
「居場所を探し続けて、人は死んでいくんだわ」
ネットの掲示板に書かれたこの言葉が印象に残っている。

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墜ちる!墜ちる!墜ちる!
永遠のループを、落下し続ける。
だれか!僕を助けて!
誰か!ここから連れ出してくれ!

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by 竹永翔一  at 18:10 |  映画 |  comment (6)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ポンヌフの恋人/レオス・カラックス監督作品


監督・脚本/レオス・カラックス

主演/ドニ・ラヴァン ジュリエット・ビノシュ


レオス・カラックス監督の、『ポンヌフの恋人』は知っている人も多いかもしれない。フランスの映画監督であるカラックスは、デビュー時「ゴダールの再来」と謳われた監督です。映像と映像にある「溝」が、なんともいえない。
彼のデビュー作『ボーイ・ミーツ・ガール』はすばらしかった。
難解で、せりふが極端に少なく、80年代の映画なのにモノクロなのですが、ものすごく映像が綺麗でした。それに、モノクロにしたことで、却って古さを感じさせず、新鮮な印象を与えていると思いました。『ポンヌフの恋人』も例外ではありません。

この『ポンヌフの恋人』は、カラックスの青春三部作の完結編で、主人公は一貫してドニ・ラヴァンが演じています。彼の野暮ったい表情や演技は、とても演技っぽくなくて、逆にすばらしい。
恋人役のジュリエット・ビノシュも、非常に独特な美しさを放っています。
二作め以降、カラーの作品ばかりですが、古さはちっとも感じませんでした。カラックスは普通の監督とは違い、型にはまった撮り方をしない監督だと思います。
カメラが思いきり手ぶれでぶれているシーンも多く、視点があちこち行ったり来たりをくり返す。なんとなく、岩井俊二を彷彿とさせる撮り方だと思いました。
あらすじやストーリーは、説明しません。優れた小説に解説が不要なのと同様、優れた映画に説明はいりません。
ただ、観てください。
俺たちが、「いま生きている」、ということを思い出させる映画です。

カラックスはこの映画の制作に10年程かかったと言っています。
総制作費14億円のこの作品は、そこら辺のハリウッド映画よりもとてつもなく地味で(本当はちっとも地味じゃない。ある意味、すごく派手です)、しずかで(花火の音や音楽が非常にすばらしい)、狂気的ですが、それもまた、カラックスが「ゴダールの再来」と言われる所以ではないでしょうか。


ただの純愛映画ではない、ただならぬ「生臭さ」を、強く感じさせる映画だ、と思います。
by 竹永翔一  at 00:57 |  映画 |  comment (4)  |  trackback (0)  |  page top ↑

PiCNiC/岩井俊二監督作品


監督・脚本/岩井俊二

主演/Chara 浅野忠信 橋爪こういち


岩井俊二監督の『PiCNiC』を観ました。同監督の映画を観るのは、『花とアリス』『リリイ・シュシュのすべて』に続いて三回めです。いやはや、何と言っていいのか、やばかった、としか言えない。何がやばかったかは、ここでは言えない。観てほしい。意味が分からないというかもしれませんが、それでも観るべき映画だと思います。
勿論、強要はしませんが。

岩井俊二は天才です。作家として小説も何作か出したりしているらしいですが、少なくとも映画監督としては天才的に巧いです。

まず、その映像。
冒頭、老人らしき人物が道路に薔薇をいっぽんいっぽん置いていくシーンから始まる。その薔薇を車が踏みつけ、精神病院らしき施設に入っていくシーンへとかわる。
このシーンも、いろんな意味ですごいなあ、と思います。
(たぶん)主人公であるココは、ふたごの妹を殺して、この施設に収容されることになった。彼女はそこで、ツムジとサトルという青年と出会い、世界の滅亡をみにいくために、塀の外には出られないので塀のうえを歩いて、ピクニックに出かける。
概要を説明したらこんな感じでしょうか。たったこれだけの映画なのですけど、何なんだろうこの悲しみは。
この映画から印象にのこったシーンを選ぼうとすると、もう数えきれません。それくらい、この映画は「映像」として優れています。
ココが塀のうえを走ったりする場面でさえも素敵です。教会の牧師との出会い。世界の滅亡をみにいくことを決めたシーン。サトルの死ぬ場面。雨の場面。そして最後の場面。
何なんだろ、この美しさは。美しいだけじゃなくて、映像の端々から奇妙なものが垂れ流されているようです。
ツムジは自分の殺した小学校の担任の幻覚に毎晩悩まされており、その担任が出てくるシーンは秀逸である。すばらしくグロテスクで、気持ち悪い。
その後ろの部屋で、牢越しに自慰にふけるサトルの姿も印象的です。
それから、雨のシーン。
ツムジとココが何かを話しているのですが、雨のせいでよく聞きとれない。でも、そんなのは問題じゃないんです。
台詞が聞こえなくても、その映像だけで、もういいんです。
ツムジのよこで雨をあびるココと、幻覚に苦しむツムジ。その映像のなんと、残酷なこと。
俺は不思議に思うのですが、いまの日本の映画やドラマは、「お約束ごと」に囚われすぎているような気がします。登場人物の台詞はちゃんと聞き取りやすくし、話の展開をわかりやすくし、俳優にはキメの展開を用意する。それは、別にいらないと言うわけではありません。否定はしたくないです。
でも、もう飽きました。つまらないし、うんざりする。辟易する。まだ小説を読んでた方がましです。
岩井俊二は、それらお約束ごとに囚われず、かといって無視もせず、うまく使いこなしている監督だと思います。

つぎに、色彩。
ココの着る服。患者たちの着る服。施設の暗さ。空の色。木々の鮮やかさ。教会の神秘的な雰囲気。
どれを取っても素晴らしいです。
特に結末の、太陽の夕陽とカラスの羽が舞う場面は、映像と色彩が融合し、圧倒的な美しさと悲しさに支えられている。
ジャン=リュック・ゴダール監督も、このような撮り方をしていると聞きました。
これら色彩の綺麗さと、曖昧さが、この作品のひとつの見せ場でもあります。
俺はいままで、こんな映画を観たことはなかった。一時間ちょっとの映画なのに、それなのに、この悲しみ。
映像や色彩に関しては、狙いすぎと言われても仕方ないでしょう。しかし、それでいいのです。物語の展開や台詞に気を使いすぎて、逆に陳腐化された映画より、はるかに感動的です。
映像だけで人を引きつけられるのだと、初めて実感しました。

この映画にストーリーはさほど重要ではないように思います。そりゃあ「塀のうえを歩く」という設定はすばらしいですが、でも基本的に、この映画にあるストーリーはそれだけです。
それなのに、物語。
どうしてたかが60分ちょっとの映画で、これだけ人を引きつけ、感動させ、絶望にたたき落とせるのでしょうか。悔しいほどうまい。
岩井俊二の作品は、その映像や色彩や音楽の美しさゆえに、希望があるように見えます(特に『リリイ・シュシュのすべて』などは)。しかし、本当はたぶん違う。
本当は、そこはかとなく絶望的なのだろうと思います。
映画のストーリー的な問題ではありません。
それら絶望や悲しみを、ここまでシュールに、ここまで美しく撮影できる岩井俊二の技量に、俺は何度でも感動する。
もう十年くらい前の映画ですが、古さは感じません。
いまでも、この映画の悲しくて哀しくて愛しい映像が映えています。

いまそんなことができる監督は、岩井俊二と、青山慎治くらいしか思い浮かびません。
彼らはいまの映像業界で画期的な(「画期的」というのは、本当はおかしすぎるのに)、まっとうなやり方で映画を撮る、稀少なアーティストだと思います。
芸術とはつまり、「約束ごと」をつくらないことなのではないでしょうか。

by 竹永翔一  at 10:42 |  映画 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑