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星へ落ちる/金原ひとみ


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「調子悪いから、今日は寄らないでこのまま帰るね」
そう。ちゃんと休んでね。言いながら、涙がこみ上げてくるのを抑える。背骨の辺りに力を籠めた。帰宅したら私は泣くんだろうけど、それは帰宅してからだ。私は彼の前で取り乱してはいけないし、泣いてもいけないし、一緒にいたいと思ってもいけない。辛いとも、悲しいとも、寂しいとも、愛してるとも、言ってはいけない。重いからだ。

『星へ落ちる』より

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金原ひとみ初の短篇集。
連作形式だという今回のこの作品集は、ひとつの恋愛から始まった三人の絶望がテーマで書かれている。

金原ひとみお得意の、神経症的モノローグもすばらしいですが、五編所収されている短篇がちゃんと時系列どおりにならんでいるため、これ一冊で中編のような気がしないでもない。
『星へ落ちる』
『僕のスープ』
『サンドストーム』
『左の夢』
『虫』
という五編の主人公は、『僕の~』が「僕」で、『左の夢』が「俺」。男性の語り手が二人でてきますが、二人ともかなり女々しいというか、怖い。
というか、この短篇集の話はだいたい怖い。
『虫』は、ひたすらゲームをやり続ける主人公の「私」が、ほとんど可哀相ともとれるくらい病んでいる。最後の一文はすばらしく怖い。

『僕のスープ』の「僕」は、同性愛者で、彼氏がほかの女と浮気しているのを知り、しだいに周りを信じられなくなる。疑心暗鬼になって、どんどんと壊れていくのだが、その過程がかなり生々しくて不気味です。

この短篇集のテイストとしては、『ハイドラ』に近いものを感じます。

特に、一貫して主人公がおなじである「私」が登場する短篇パートは、「私」の前の恋人から電話が毎日かかってきて、それがアクセントになっているし、「私」と前の恋人を対比して見ることもできます。
「私」「僕」を煩わせているのは、いまの「私」の恋人であり、いまの「僕」の同棲相手です。
この恋人の男の存在が、常にこのふたりの感情にまとわりつき、自然と痛々しい方向へと進んでいくのですが、ここもとてもリアルで、ちょっとありそうな雰囲気です。
「私」と「僕」を対比させることもできますし、二人の病み具合を対比させることもできる。つながりが非常に強いと思います。
また、おなじ文章が繰り返し用いられたりするのが、よけいに痛い。

転じて、『左の夢』は以前書評を書いてしまいましたが、こうやって読んでみると、ちゃんと前後の短篇とつながっています。
とにかくこの短篇は、個人的にはラストがすばらしすぎます。
なるほど、と思わず唸りました。

私小説的な風味が強いこの連作短篇集は、一見ただの恋愛小説ですが、それを取り除くと、強烈なエゴイズムがあらわれて、人間の「すがた」を感じます。
金原ひとみは、多視点をもちいて、これをやり遂げたと思います。

でも、金原ひとみは本当はもっと書ける人。
正直もっと短篇があっても良かったのですが、しかし、完成度はきわめて高い短篇集だと思います。
個人的には、『サンドストーム』『左の夢』『虫』が印象に残りました。
今回読んで思ったのは、金原ひとみは案外場面転換がうまいのではないか、ということです。
負のイメージと痛さを感じる短篇集ですが、好きな人は好きだと思います。

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僕は彼を責められない。元々僕たちは恋人じゃなくて、一緒に暮らす事によって互いにメリットがあるからという体裁の上に成り立った関係だ。僕はずっとそういう関係性を維持しようとがんばってきたし、そうする事によって彼を引き留めていられるんだと分かっていた、いや、そうしなければ彼は僕の元を去ってしまうから、そうしてきた。別れてよ、本当はそう泣いて怒りたいのに、絶対にそんな事を言えるはずがないのは、僕のせいだ。─中略─そういう関係で、セックスがなくなった今、僕らはただのルームメイトだ。

『僕のスープ』より

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by 竹永翔一  at 18:27 |  書評 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑

暗渠の宿/西村賢太



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都電の線路を足ばやに横ぎり、ガード下をぬけたところでもう一度振りむいてみたが、それと気になる人物や車両はなかった。根が小心者にできてるだけ、最後に吐き残した暴言のことで連絡を受けたその店の者が追っかけてきはしまいかとヘンに気にかかったものだが、どうやら杞憂のようであった。それでやっと日常に立ち戻った思いになり、すでに閑散とした駅前からのだらだら坂を地下鉄の入口にむかってのぼりながら、私はしみじみ女が欲しい、と思った。

『けがれなき酒のへど』より

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西村賢太の『暗渠の宿』を読みました。
非常にばかばかしい話が二編、収録されています。「ばかばかしい」というのは、でもこの場合ほめ言葉です。ばかばかしく素晴らしい作品集でした。

うえの引用を読めばわかるとおり、文体がものすごく近代文学の影響をうけています。自分の恋人を「女」「私の女」と言ったり、台詞が「しかし何だぜ……」など、かなり近代文学を意識していることがわかります。
西村賢太は、2004年に『文學界』からデビューしたのですが、今時の新人がこのての文体を使うということは、あきらかに近代文学に傾倒しているんでしょう。
事実、作品中でもその近代文学オタクっぷりが発揮されてます。

主人公はいつも同一人物で、つまりは私小説です。俺はあまり近代文学が好きではないし、私小説もそんなに読んでこなかったつもりですが、西村賢太はすばらしい私小説作家、いや、本の帯で豊崎由美が言っているように「全身私小説家」です。

主人公の「私(=西村賢太)」は、ものすごく情けない男です。恋人はなかなか出来ず、出来ても暴力をふるって暴力をあびせたり、特に食べ物の場面でよくカタストロフが生じます。問題になるのが常に金のことだというのも可笑しいですし、恋人の父親からも借金をしていると、作中では述べられています(どこまで本当か怪しいものですが)。
「私」は、藤澤清造という大正期の作家に傾倒しており、彼の「没後弟子」とまで自称しています。「私」はその藤澤清造の全集をつくろうと資金繰りをしているが、なかなか貯まらない。資金を預けている古本屋の主人に勝手に使われたり、女のために使ったりと、むしろ減っているみたい。
ちなみに西村賢太自身も、藤澤清造の全集を刊行しようと資金繰りをしています。

『けがれなき酒のへど』では、なかなか恋人ができず、風俗で性欲の処理を行っていた「私」が、ある日タイプの風俗嬢に出会い、その彼女に騙されて捨てられるまでの過程を描いてますが、捨てられることが最初からわかるように書かれているところが、近代文学的です。
それでもって、この主人公の情けなさはより顕著になるのがわかって、非常に楽しめます。

『暗渠の宿』では、「私」にやっと恋人ができ、その恋人と同棲するのですが、ある突発的な出来事から彼女に暴力をふるってしまう。それがどんどん加速していく話ですが、最後の一行はすばらしく情けないです。

もう一度言いますが、西村賢太の書く小説はすべて私小説です。しかもほぼ自分のことを正確に書いている作家。
それを踏まえてみても、人間としてここまで最低な奴がいるのかと、やや心配にもなりますが、やはり、可笑しいのです。
情けない男が女を得るための努力話と、情けない男が女を得てからの堕落(?)を描いたこの作品集は、いままで読んだ私小説のなかでもトップクラスの面白さです。

21世紀にもなってこんなことをやっている西村賢太もすばらしいですが、何よりまず、作品の端端から、藤澤清造に対する愛着が垣間見えて、可愛らしくもあるけど、次の瞬間一気に脱力する。
そんな男の話です。

西村賢太はこんな時代錯誤なことをしてまで、なぜ私小説を書くのでしょうか。それは、小説にどっぷりと浸かり、そこから上がれないからなのでしょうか。

でもとにかく、ばかばかしいことこの上ないこの小説は、すばらしい出来なのでした。

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初め、これにも文句は言うまいと努力し、二口、三口と啜り込んでみたが、その食えぬ程ではないにしろ、決して納得のゆくものではない面白くなさは、何から何まで私の言に背いたこの女への怒りの感情に同化し、そこへよせばいいのに女が、「どう?」なぞ、何か褒め言葉を期待するような口調で聞いてきたのがたまらなく癪にさわり、つい反射的に箸をどんぶりの中に放ると、
「どうもこうも、あるもんか」と、言ってしまった。
「え」
「まずい」
「えっ、まずかった?」
「ああ、まずいよ。まず過ぎて、お話にならないね。誰がこんなにくたくたになるまで煮込んでくれと頼んだんだよ。ここは養老院の食堂じゃないんだぜ。おまえはぼくの言うことを何ひとつ聞いてやしないんだな。固めにしてって言ったろうが!」

『暗渠の宿』より

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by 竹永翔一  at 11:29 |  書評 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ケータイ小説と文学

先週だったか、NHKの番組「ETV」で、ケータイ小説の特集が組まれていた。
何故いま、ケータイ小説が女子高生にウケているのかを、写真家で随筆家の藤原新也が迫る、といった内容でした。
俺はつくづく悲しい気持ちになりましたが、一方で、ある意味で納得もしました。
ケータイ小説家たちは皆、自分の実体験あるいは想像を、サイト上に綴る、といった方法で作品を公開しています。
人気のある作品は、書籍化され、うまくいけば『恋空』みたいに映画化されます。

ケータイ小説家たちは皆、年齢が若く、十代が圧倒的に多いです。
文学の世界も、いまや十代でデビューする人たちがたくさんいます。

まず、その十代の新人作家の登竜門的な存在として、「文藝賞」があります。
2001年に、綿矢りさが『インストール』で史上最年少17歳でデビューし、その後2003年に羽田圭介が同じく17歳で『黒冷水』で、2005年には三波夏が『平成マシンガンズ』により、なんと史上最年少15歳で、綿矢りさ、羽田圭介の記録を破りデビューしました。
また、「すばる文学賞」からも、2003年に金原ひとみが19歳で、『蛇にピアス』でデビュー。
その内、綿矢りさと金原ひとみは、それぞれ最年少で芥川賞を受賞し、一気に知名度をあげました。

このように、十代でもじゅうぶん、文学賞からデビューできるのに、なぜ「ケータイ小説」なのか。

理由は簡単で、「手っ取り早く手軽に書けて、かつ多くの人に読んでもらえる可能性があるから」です。
確かに、成功すれば利益は大きいでしょう。もちろん必ずしも、ケータイ小説家が読んでもらおうという意識で書いているわけではないようです。
Chacoというケータイ小説家は、最初はそれまでの出来事を振り返るために書いて、出来上がったら削除するつもりだったのだという。しかし、いつのまにかその話が爆発的人気をよび、あとに引けなくなったと言います。

この話からもわかるように、「ケータイ小説を書く」ことは、リスクを負わずにすみます。
お金もかからず、すんなり小説を世に出すことができる。
しかし、残念ながらほとんどのケータイ小説は、個人的にいえば、駄作ばかりです。

実体験を元にした話なら、まだ許せます。しかし、そうじゃない作品は、あまりにお粗末すぎるような気がしてなりません。そもそも実体験を元にした小説も、お粗末すぎる。
『恋空』などその典型です。
こんなことを書くのは、お門違いもいいとこだろうとは思います。しかし、俺はどうしても、いま売れているケータイ小説が許せないのです(この時点で俺はおそらく間違っています)。

サイト上で人気のある作品が書籍化されて売れるのは、当然だと思うのです。
リスクを負わずに、なんの難点も気にせずに本が売れる。
俺は小説家でもないのに、やたらむかつきます。
なぜ、文学賞からデビューした若い作家(少なくとも、ある種の「リスク」を負った人たち)の小説は、女子高生たちに注目されないのでしょうか。
注目されたとしても、ほとんど大人にばかり注目されます。

金原ひとみは、こういう事態についておもしろいことを言っています。
ちょっと引用します。

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私自身、デビュー前から、お金が発生しない形では小説は出したくないと思っていました。自費出版とか、とても流行っていますけれど、それでは意味がないと。そんな事をするくらいだったら、一人で書いて一人で推敲して一人で読んでいたいと思うんです。

『野生時代』9月号より

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これはつまり、リスクを負うことが大事なのだということです。
そして、大概のケータイ小説はハッピーエンドで、結果的に、ある種の「癒やし」をもたらします。俺は本当に、びっくりしてしまいます。
なぜみんな恋人を(あるいは友人を)殺して、でも私は頑張って生きるよ。あなたの分まで精一杯生きるからね。と、なぜそんな結末になってしまうのでしょうか。
なぜ、主人公たちを生かそうとするのでしょうか。
俺には意味が分からない。

金原ひとみはまた、こうも言っています。

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だいたい、なんで小説なんかで癒されなくちゃいけないの

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全くそのとおり。小説だけでなく、映画や音楽でも、「癒されなくちゃいけない」ものばかりが先行しているようです。
ばっかみてぇ。まじでどうかしてる。

小説は、そもそも物語は、だれかを癒すための代物ではない。いや違うかもしれないけど。
「癒やし」がある物語も、すばらしいものがたくさんあるはずです。
たとえば、舞城王太郎という小説家。
彼なんかは、最後の最後でものすごく癒されます(例外はありますが)。それまで暴力的だったり暴走していた話が、急に着地するような感じ。
それでも、俺は彼の小説が好きです。
また、よしもとばななという作家。
俺は彼女の小説は好きではありませんが、うまいなあ、とは思います。少女漫画的な雰囲気なのですが、それをちゃんと「小説」として昇華させている、稀有な作家です。

「癒やし」を目的とした小説があってもいいです。しかし、いかんせんケータイ小説は、あまりにも取って付けたような、ご都合主義的な「癒やし」ばかりじゃねえかよ。
舞城王太郎やよしもとばななが優れているのは、その物語にあった、うまい着地点=「癒やし」を捻りだしているからで、とても自然です。
読んでいて、少なくとも、癒されます。癒やしの種類はちがえども。

ケータイ小説は、そのような着地点をいっさいかえりみず、こうすればウケるな、とか、こういう結末だったら良い感じだな、というただの「定番」にはまっている。もちろん例外も少なからずあるでしょう。ケータイ小説で「文学」をやろうとしている人たちもいるはずです。
でも、そういう人は全く注目されない。

俺は「文学」が偉いとか、ケータイ小説よりも上だ、と言いたいわけではありません。
ケータイ小説というひとつの「手段」も、否定はしません。
ただ、あまりにも、型にはまりすぎているということが言いたいだけです。
たしかにケータイ小説は、そこら辺の小説家の描く十代より、確固たる空気があると思います。
でも、それだけじゃん。

もし、文学が描いてきた「どうしようもないこと」や「救いのないもの」が、ケータイ小説に不要ならば、俺はケータイ小説を断絶し続けます。

最後に、この記事を読まれて不快になられた方がいらっしゃったら、謝ります。
すみません。

これは今、現時点での俺の気持ちにすぎませんから、できればスルーしていただきたいところです。
by 竹永翔一  at 00:36 |  書評 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

阿修羅ガール/舞城王太郎


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少なくともまだ、私はアイムプリティファッキンファーフロムOKって感じではない。
私はとりあえず顔射も口の中でドピュドピュゴクンも中出しもプリズンエンジェルも避けられたのだ。
うん、OK。
これまでの人生の中で一番最高の時って訳じゃないし正直辛いけど、でも大丈夫。私はまだまだやってける。
好きじゃない男の人とセックスしちゃうアホな女の子なんて、私だけじゃないはずだし、それどころかこの世にはそんな人が私の想像しているよりももっとずっとたくさんいるはずなのだ。そして、そんな女の子達の中には顔射やら口の中で~やら中出しやらプリズンエンジェルやらの目に遭ってる人たちもたくさんいるんだろう。いや、プリズンエンジェルはなかなかないか。ってそんなことはどうでもよくて、とにかく、私はヤな目に遭ったけれども本当の最悪の目に遭った訳じゃないのだ。
私はまだOK。
こんなところでへこんでたら、実際プリズンエンジェルの人に申し訳ない。

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第16回三島由紀夫賞受賞作。

うえの引用を読んで、なんだこれは! と思ったそこのお前! そうお前よお前。最初に言っておくが、この小説はすばらしい、愛と存在と少女の物語なのだ。舞城王太郎はけっして嫌がらせであのような文章を書いたわけではなくて、ただ女子高生の語りをリアルに近づけるために用いたにすぎない。
実際この語りはよく出来ていると思います。少なくとも、女子高生のしゃべり口調に近いです。
そう、すべては舞城王太郎の狙いにすぎない。

第一部、第二部、第三部からなるこの長編小説は、今まで俺たちが呼びならわしてきた「文学」とは一味も二味もちがいます。
舞城王太郎は、今まで他の作家が置いていった技術を捨て、完全に独自の小説を打ちだしてしまった、稀少な小説家である。

主人公のアイコは、好きでも何でもない佐野とやってしまい、後悔する。
しかも冒頭からいきなりその意を表明し、あまつさえ、アイコにこう言わせている。

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減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
返せ。
とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうものじゃなくて取り返すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。

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ふつう、小説で主人公にこんなことは言わせないと思います。物語が進むにつれて、その意思が示されるのであって、いきなりこんなふうに反省するように描かれた小説は、たぶん初めて読んだ。
舞城王太郎は、いわばそのような小説家である。
「文学」がタブーとしてきたことを平気で冒し、かつそれを成功させた、唯一の作家でもある。
もちろん他の作家(特に年配作家)には、彼を認めないとしている人たちもたくさんいます。しかし、そんな奴らは、何にも読めていない。俺たち一般人が何にもわかっていないから、何にもしないから、わざわざ作家である舞城が俺たちのもとに歩み寄ってきているのです。そんな文学は、今までの日本にはなかった。
アイコは陽治に恋している。知られたくないことを知られて、「バーカバーカ陽治死ね死ねって気分と、もう何でなの陽治?」って気分になるし、「やべー泣きそうだ。泣きかけだ。半泣きだ。ううう、目が熱い」なんてことにもなるし、つまりは「普通の女子高生」なのだ。
舞城王太郎作品に登場するひとびとは、皆ふつうだ。ふつうだからこそ悩むし悲しむし恋するし、人を愛する。
そんなことが、飽きないように、ずらーっと描かれている。「死ね」を連発するあたりは、金原ひとみ作品にも通じるような気もします。
街では「アルマゲドン」が起こったりしている。子供たちが反乱をおこす。
第二部ではへんな森が出てきて、まったく意味がわからない。第三部で、すべての謎がわかる。
全部説明してしまっているのだ。これは何々のメタファで、これはこれの伏線なんですよ、と、アイコを介してさらっと説明してしまう。
文学のタブーを、舞城王太郎は冒している。しかし、それが成功している。ちゃんと「文学」になっている。
すごい。としか言えない。
何がなんだかわからないけどとにかく面白いし切ないしいとおしいのだ。
そう、舞城王太郎はご丁寧にも、俺たちに愛を説いてくださり、そのうえそれをエンターテイメント性の高い話を絡ませて、物語として、純文学として昇華させることに成功している。最後にはすべてを説明してくれる。
それは、ある意味侮辱されていると取れるかもしれない。
説明しなくちゃ解ってもらえない。読んでもらえない。舞城はそう思っているかもしれない。
だとしたら、それは悲しいことだが、それでも俺はすごいと思う。

舞城王太郎は、文章もすばらしく巧いです。
読点が少なくて、読みにくいと思うかもしれないけれど、それは計算された読みにくさなのです。
それにあのスピード。
他の作家には絶対に真似できない。

これを、およびこの作家を認めなかった宮本輝や石原慎太郎は結局、何にも読めていなかったのでしょう。
でも、舞城はあきらかに「新しいこと」をやろうとしている。小説という芸術を壊そうとしている。

詳細なあらすじも経過も説明しません。読んでみてください。
舞城王太郎が、やさしく、朗らかに説明してくれます。

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他人の神様パクんな。
と思ったけど、そもそも宗教なんてパクりばっかなんだった。宗教心そのものもパクりだ。なんか心に穴開いた奴らがあ~やべ~何かに夢中になりて~ってきょろきょろまわり見て、何かよくわかんないけど一生懸命空やら十字架やら偶像やら拝んでる奴らを見つけてあ、あれ、なんか良さげ~とか思って真似すんのが結局宗教の根本。布教ってのはそういうぼさっとしてるわりに欲求不満の図々しいバカを見つけてこれをパクって真似てみたらなんとなく死ぬまで間が持ちますよって教えてあげること。まあそんなふうにパクりでも真似事でも何でも、人の役に立ってたり、少なくとも人に迷惑かけてなかったらなんでもいいけど、猫とか犬とか子供とか殺して、その言い訳に、人からパクった宗教とか主張とかイデオロギーとか使う図々しいバカは死ね。
つーわけでグルグル魔神とか名乗ってる奴も死ね。

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by 竹永翔一  at 15:50 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

溺レる/川上弘美


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「モウリさん何から逃げてるの」逃げはじめのころに聞いたことがあった。モウリさんは首を少しかしげて、
「まあ、いろんなものからね」と答えたのだった。「中ではとりわけ、リフジンなものから逃げてるということでしょうかねえ」
「リフジンなものですか」ぽかんと口を開けてモウリさんを仰ぎ見ると、モウリさんは照れたように目を細め、何回か頷いた。
「リフジンなものからはね、逃げなければいけませんよ」
「はあ」
「コマキさんは何から逃げてるんですか」

「溺レる」より

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第11回伊藤整文学賞、第39回女流文学賞受賞作。

この本を読んだのは、去年ですが、いまだ印象に残っています。川上弘美はひらがなと漢字とカタカナの使い方が半端じゃなくうまいですね。
表題作をふくめた全八編からなる短篇集です。

『センセイの鞄』を読んだときも思いましたが、川上弘美の小説の人物たちはいつも何かを食べている。
「さやさや」の主人公と男はむやみにしゃこを食べ、「百年」の主人公は寿司屋のおやじが困ってしまうほどシンコばかり食べる。食べる。食べつづける。後者の場合は心中まえのやけ食いとも言えますが。しかし何か動機があって食べているわけではないらしい。楽しんでいるとも思えないし、ただ黙々とシンコならシンコにのめりこむ。シンコを食べつづけることで、それ以外のことを忘れられるわけだろうか。
つまりは、逃げるために食べる。
この短篇集の男女は、逃げている者たちが多い。しかも、「カケオチ」とか「ミチユキ」とかみたいに色っぽいものではない。「無名」の男女のように死後500年たっても逃げ続けている奴らがいると思えば、今から逃げだそうとする奴らもいる。いろいろだ。
逃げるとは、はたして何からか。それは世間からだ。そこから、彼らはどこまで行けるのか。
それだけだと、ありきたりなつまらない小説だと思うでしょう。

「さやさや」の男女はしゃこを食い終わったあと、「人家もなくなり電信柱も稀になった」夜道を、とぼとぼ行く。
「七面鳥が」の男女は、オクラとめざしとホルモン焼きかなにかでいっぱい呑んで、店の外に出て歩く。その場所は「夜が、暗い。こんなにも暗い土地だったろうか」。
とりあえず、暗い場所に行く。しかしまだこれからだ。行きずりの不動産屋でみかけた「四畳半トイレ・歩五分・新築・一万五千」のアパートやら、10分おきにぐらぐら揺れる線路沿いの部屋やら、さらに向こうには高速道路の横転事故でオシャカになったり、日本海の自殺名所からのとびおり自殺で一抹の最期がある。
逃亡のはて、死がある。
暗いが、男女はそれなりに楽しくやっているかもしれない。
世間の責任や義務から逃亡していて、暇がありあまっている。だから、真っ昼間からそれ一間しかない安アパートの日当たりのいい六畳間で「溺レる」。「アイヨクに溺レる」。
まあ、溺レるのは食べるのと同じような、そういうものなので、あまり良いもんじゃないけれど。
しかしある瞬間に、パッと明かりが射したりする。
ただの明かりではない。世間の裏側にいて初めてみることができる、普通ではない、ちがう明かりである。
彼らはもう、帰ることができないらしい。

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「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」
「帰れないかな」
「帰れないなぼくは」
「それじゃ、帰らなければいい」
「君は帰るの」
「帰らない」
モウリさんといつまでも一緒に逃げるの。
その言葉は言わないで、モウリさんに身を寄せた。モウリさんは小学生みたいになって泣いていた。

「溺レる」より

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もう帰ることの出来ない場所にいるのだ。この短篇集の男女は子供みたいである。大人になることから、逃げたい。そう感じているようにみえる。
それから、男に誘われて女は逃げる。
きれいな女ではない。つまらない女とだ。ある女は「おおかたの人から、あんたと居るのはつまらない、と言われた」り、別の女は、男が部屋に帰っても「部屋の中の電気はついておらず、畳にじっと座ったり寝そべったりしたまま、本を読むわけでもなく仕事をするわけでもなくものを食べるわけでもなく、いちにち茫然と過ごして」いるらしい。

ちょっと、内田百間を思いだす。なんでだかわからないけれど。

彼女たちは皆、男とともに「溺レ」ていく。つまらない女と一緒にいると、帰れなくなるらしい。
幸運なことに、これらは小説の中の出来事であり、またあるいは、小説そのものが出来事でもある。
逃げることは帰る場所をうしなうことなのでしょうか。
それかいっそ、「アイヨクに溺レ」たほうがいいのでしょうか。
それもまた、この小説のなかの彼らの人生です。

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僕は虫が食えなくてさ。トキコさん、虫はどう。トキコさん、七面鳥飼うの、やめろよ。飼うなら文鳥がいいよ。トキコさん、また酒飲みたくなってきたな。トキコさん、僕は眠たくなってきた、もう帰ろう。もう帰って、眠ろう。うん、うん、とわたしは頷いた。足は鉛のように重く、わたしもハシバさんも歩いているのにほとんど進まない。とりとめもなく、わたしたちはどこかに向かって歩いてゆく。おそろしい、おそろしい、と思いながら、どこやらに向かって、歩いてゆく。

「七面鳥が」より

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by 竹永翔一  at 14:21 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

アッシュベイビー/金原ひとみ


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恋する肉体同士に中途半端な距離は、クソだ。血が噴き、傷をえぐる関係が欲しい。つまり愛する人よ、私を殺せ!

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芥川賞受賞第一作。

金原ひとみの第2作。読んで、好きという人はあまりいないとは思います。しかし、この作品は傑作です。

主人公の「アヤ」は、キャバクラ嬢で、男性を魅了するだけの容姿をもっている。彼女は大学時代の同級生の「ホクト」とルームシェアをしており、アヤはホクトがなぜ自分に性的な興味を抱かないのか不思議に思うのですが、実はホクトは、赤ん坊にしか性欲を抱けない幼児性愛者(ペドフィリア)だった。
アヤは子供が嫌いであり、ホクトは子供にしか性欲を抱けない。

アヤの子供嫌いは、読んでいて疑問を覚えるほど凄まじい。冒頭部分から、いきなりその頭角を現します。

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前を歩いてるガキがチラッとこちらを振り返り、いぶかしげに私を見た。中指を立てたけど、奴にはその中指が何を示すものなのか理解出来なかったらしい。

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またアヤは、「ヤリマン」であり、合コンで知りあった「モコ」という女の子とも関係をもつ。この放蕩っぷりは素晴らしいです。アヤは見境なく、やりたいと思った相手とやってしまう。何も考えないし、あとくされなく事を済ませようとしますが、このモコというキャラクターが後半、アヤを煩わせます。
ある日アヤの働く店に、ホクトの会社の同僚である「村野さん」がやってくる。「こんなに完璧なフォルムの手は初めて見た、というくらい」美しい指をもつ村野さんに、アヤは惹かれていく。
そんなとき、ホクトがどこからか赤ん坊を誘拐してきて、それを性欲の対象とします。アヤはその赤ん坊の存在に苛つく。

アヤはこの後、自慰をしながらなぜか自分で自分の太ももを果物ナイフで突き刺します。その傷がまさしく、男性に欲されるべき陰部であるかのように。

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きぇえー。私は叫んで昨日オレンジを食べた時に使った果物ナイフをつかんで左の内腿に突き立てた。私の肉体が反乱を反乱を起こした。(中略)まあ、いいや。どうせ私はなにやったって間抜けなんだから。死ねやクソ、私はそう言うと果物ナイフを引き抜いた。勢い良く飛び出した血を顔面にくらって、私は面食らった。血を吐く傷口なんて、マンコみたいだ。嗚呼、マンコ誕生。

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アヤはマンコを傷に見立てます。そう、マンコとは「傷」であり、痛みなのです。

『アッシュベイビー』を読んで、下手くそだと思った人は、あまりにも無邪気。実は、この小説は周到に考えられて作られた傑作なのです。

たとえば、この作品には三ページに一回の割合で性描写が描かれていますが、そのすべての性描写には、何かがごっそり抜け落ちています。何かが決定的に欠けているのです。
それは、アヤと村野さんの初めてのセックス描写が伏線となっています。
二人のセックスは、基本的に「ずれ」が生じている。

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村野さんはやっと服を脱いで、私の顔の横に手をついて挿入した。充分に濡らされたマンコはずぶずぶとチンコを受け入れ、「すっげーユルい」とか思われてるかも、なんて不安がよぎった。もっとシマリが良くて、チンコが抜けないくらいのマンコだったらいいのに。脚をカエル型に持ち上げながら、村野さんはまた傷を指で押さえた。血に塗れても、その手は卑屈なほどに、優美な微笑みをたたえていた。ああ、痛い。気持ちいい。痛い痛い。気持ちいい。けど、痛い。やっぱ痛い。すごく痛い。ああ、痛い。痛い。よく見ると村野さんは親指を傷に食い込ませていた。一センチほど、傷口を割って親指が入っていた。私の天井が、崩壊を始めた。ああ、このまま私をえぐり殺して。

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ここでのアヤは確かに感じてる、痛みを。でも、村野さんは違う。「痛くない」。それどころか気持ちいいのかも分からない。身体的な快楽と満足が分離していて、アヤは満足はするが、村野さんはたぶん違う。
これが一つの伏線だとするなら、非常に巧いと思う。
また、モコの存在も重要である。それから赤ん坊の存在も。

ホクトは赤ん坊を性欲の対象にして満足しているが、赤ん坊はたぶん違うし、むしろ嫌がっている。アヤはモコとの二度めのセックスに、拒否反応を起すけど、「それでも彼女に恥をかかせてはいけない」と思い、我慢する。これらは、ひとつの「ずれ」で、一方は満たされ、一方は違う。

村野さんは一切の感情を殺して、アヤにも淡白な態度をとり続ける。セックスしても近づかないし、だから、アヤは「好きです」という言葉に頼り続ける。
その言葉は、そのまま自分を満たそうとし、同時に村野さんに向けられています。まるでその言葉によって、村野さんと結びつこうとするように。
そしてアヤは、村野さんに殺してほしいと思うようになる。

一方でホクトは、相変わらず赤ん坊にチンコをおしつけたりしている。アヤは、「きっとホクトはものすごく楽なんだろうと思」う。
「私のように、相手の反応を気にする事もないし、相手が嫌がっても泣くだけだから、口を押さえれば見て見ぬ振りが出来る。」と。

果ては動物虐待まで出てくるこの小説には、それをはぎ取ってみると、今まで見たこともない「純愛」が姿をあらわす。
終盤でアヤと入籍までした村野さんは、やっぱり心を開いてくれない。アヤが入院しても見舞いに来ないし、退院したアヤが村野さんの家に行っても、村野さんはいつも通り、淡白である。
そして結末、アヤは突然消滅してしまったかのように、その独白を終える。

こんな純愛、今まで読んだこともない。Amazonのレビューでは、この作品に対し、「気持ち悪い」「芥川賞作家の文章じゃない」「下手くそ」「金原ひとみの人間性を疑う」など、とってもおかしな言いがかりをつけられました。
しかし、そういう人たちは、何にも読めなかったのでしょうか。本当に?
『世界の中心で、愛をさけぶ』や『恋空』なんかで泣いてる暇があるなら、『アッシュベイビー』を読んで純愛の概念をぶっ壊してほしい。
「ただきれいなだけじゃない純愛もある」んだと知ってほしいし、金原ひとみはもっと正当な評価をされるべきです。

村上龍の言葉を借りるなら、「歪んでいるが、とても美しい」小説でした。

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三日目に、ナツコが教えたらしく、モコが見舞いに来た。(中略)
「アヤに、傍にいてほしいの」
傍にいて欲しい、という気持ちは私にも何となくわかった。私だって今、村野さんにどれだけ触れたいか、どれだけ看病して欲しいか。どれだけ隣にいて欲しいか。どれだけ殺して欲しいか。
誰にこの気持ちがわかるだろうか。

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by 竹永翔一  at 15:22 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ナンバーワン・コンストラクション/鹿島田真希


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あの人は憎んでいない人のことも苦しめる。愛している人のことも。きっとそういう人なんだわ。あの人が誰かを苦しめること、悪に身を染めることに理由なんてないんだわ。それは快楽? いいえそれも違うわ。あの人はその類の人でもない。だって私に罰を与えたあの時のあの人は、どこかつまらなそう。つまらなそうで、しらけていたし、そして苦しそうだった。あの人の罰は性愛じゃない。性愛すらおそらく信じていない。彼はなにも信じていないわ。

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第135回芥川龍之介賞候補作。

上の引用を読んで、ものすごい異和感をもった人も多いと思います。
俺も、正直この作品は苦手なのですが、あえて紹介します。
会話から文体、メタファなどが異様に古臭い。会話に関しては、19世紀のロシア文学の翻訳調の文体を意識していたり、トルストイの小説のモチーフが使用されていたり、議論ばかりしていたりと、いろんな意味で時代錯誤的な小説です。
おかげで、読者に一切の感情移入を拒んでいる。ついでに、何だか可笑しな悪意まであり、そういう意味では、この作品は中原昌也の小説に近いような気がします。意外と笑いの感覚が似ているのかも。
こういう箇所があります。

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大抵の人間は無根拠を知ると、落ち着きをなくして苦しむ。自分のやっていることの無意味、志が取るに足りないということ、自身の存在への不信。それらは絶望につながる。今、彼はじわじわと無根拠に蝕まれつつある。

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中原昌也が小説で言っていることに似ていると思いました。

他には、鹿島田真希特有の、宗教上の贖罪と赦しがはいってくる。あと、結末の下世話さ。「建設」が重要なテーマです。登場するS教授は建設史家ですし。
登場人物はおもに四人(S教授、M青年、少女、N先生)なのですが、彼らの関係がかなりアンバランスで、あちこち行ってしまう。
笑えるのは、やはりラストと、彼ら登場人物の会話および独白。いまどき、そんなこと言う奴いないだろ、という感じですが、そのばかばかしさが面白い。
たとえば、この場面。

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「これは彼女へのプレゼントです。これからお祝いするんですよ。今日はきっと二人の記念日になる。そんな気がします。」
N講師は恍惚としてそう答えた。
「まあ、どんな記念日でしょう。とにかくおあがりになって」
N講師と母親がプレゼントの包み紙を開けるように促すので少女は袋を開けた。ぐったりした子猫が震えながら、弱々しい足取りで袋から出てきた。少女の体に悪寒が走った。
「どうだい。素敵なプレゼントだろ? 君が以前猫を飼いたいと言っていたから買ってきたんだよ」
「そうね」
少女は青ざめて頷いた。
「なんてかわいい子猫ちゃんなんでしょう。種類はなんですの」
「アメリカンショートヘアです。血統証つきですよ」
「こんな高価なプレゼントをいただけるなんて、うちの娘は幸せものね」
「お母さん。この猫具合が悪そうだわ。看てあげて」
「はいはいわかりました。お前ったら私と先生が話をしているとすぐに遮るんだから。きっとやきもちね。台所にタオルを敷いて寝かせてあげましょう」

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このような会話が、まるで「エルム街の悪夢」のように続いて、ちょっと目眩がしますね。

それから、ラスト1頁。
ここは秀逸ですね。S教授はカフェで働いている少女が好きだったのですが、最後がそのカフェのシーン。
S教授がホットサンドからこぼれたターキーとレタスについて文句を言うシーン。これだけで笑えるのですが、そのあとがもっと面白い。

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彼はまさかと思って走ってスタンドまで行った。
「このサンドイッチを作ったのは誰だ!」
彼は怒鳴った。
「私だけど、文句ある?」
彼女ではなかった。浅黒い、背の高い女性が胸をはって出てきた。
「このサンドイッチのマヨネーズはなんだ! あんなに楽しみにしていたのに。気が狂いそうだ!」
(略)
女性は彼に平手打ちを食らわした。
「馬鹿じゃないの。変態」
彼女は相変わらず胸をはっていた。きっぱりと一直線に切りそろえられた前髪の下から、大きく美しい瞳が彼を見つめていた。教授は恥ずかしくなって、下を向いたが、彼女のネームプレートを見ることを忘れはしなかった。

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ここまで読まされて、このオチかよ! と、突っ込みたくなりますが、まあ面白いですね。
最後にS教授の心変わり、という。

ただこの作品には決定的な問題があって、それは最後のほうで、この作品の意図をすべて説明してしまっていることです。メタファとか何から何まで。
これは小説としては、かなりの欠点でしょう。
「人の心は都市のようだ。文節と更新を繰り返す。N講師は赦しという言葉によって、無意識から意識へと更新された」とか、「人はその歩みにまばゆいばかりの悦楽を得る。そして死すべき運命であることを忘れる」とか、お前いったい誰!!?? と言っちゃうような文体で。
なぜ、こんなことをしたのか考えると、これは第135回芥川賞候補作ですね(ちなみにこの回には中原昌也も候補でした)。つまり、これは鹿島田真希なりの、芥川賞への対策だったのかもしれません。なにしろ選考委員には、石原慎太郎という壁があるので(それにしたってこれはひどいでしょ。おまけに、中原昌也と共に一番に落とされた)。

だからということでもないですが、鹿島田作品のなかではテーマがわかりやすく、建設理論を人間のありようとか世界の構造のメタファとかいうことを、たぶんわざと解るようにしているので、さほど難解な作品ではありません。
それに、この作品はちっとも映像的ではなく、小説でしか出来ないことに果敢に挑戦しているとも思うので、あまり文句は言いません。

でも、鹿島田作品のなかでは中の下というクラス。
初心者には無難に、『六〇〇〇度の愛』などをおすすめしますがね。

基本的には、読みごたえある作家ですし。

by 竹永翔一  at 21:03 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

とおくはなれてそばにいて/村上龍


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冷たいシャワーを浴びているうちに脈博と同じリズムで左耳が痛み始めた。さっき頭を打ったせいだろうとニキは思った。部屋に戻るとレダは二人の衣服をきれいに畳んで椅子に置いている。枕は黴臭く、シーツは湿って、レダの足は暖かい。
「抱いてくれないの? こんな部屋じゃいや?」
「疲れてるんだ」
「こんな宿しかないのよ」
「レダと一緒ならいいさ」
「朝まで一緒なんて初めてね」
リオに比べると静か過ぎてニキは眠れなかった。痛みはまだ続いている。

『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』より

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村上龍の『村上龍恋愛短編選集 とおくはなれてそばにいて』を読んだのは、結構むかしです。
まえがきで、村上龍は「それほど多く恋愛小説を書いていないし、恋愛小説と明確にカテゴライズできるような小説も書いてこなかった」と言っているとおり、この短編選集の作品はみな、「恋愛小説と明確にカテゴライズでき」ないものばかりです。
そもそも村上龍に、あまり恋愛小説家というイメージもありませんし。
全体的に、初期の作品のほうがパワーのある彼ですが、この本には初期短編も含まれています。上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』もそのひとつ。

全19編収録されている本作でのお気に入りは、『そしてめぐり逢い』『受話器』『彼女は行ってしまった』『シャトー・マルゴー』上の『リオ・デ・ジャネイロ・ゲシュタルト・バイブレイション』などです。

どの作品も、泥臭くて、退廃的にみえます。
『そしてめぐり逢い』の主人公はさまざまな女とセックスし、金もある。しかし高校時代のあこがれの女の子が裏ビデオに出ているのを知って、「がっくり」くる。
『受話器』の女はホテルにデリバリーされるSM嬢で、彼女は自分を「寄生虫のようなものだ」と言う。足フェチの男の口に受話器をつっこんだときに、「音」が聞こえてくる。
『左腕だけは君のもの』の男は、ニューヨークで会った女と関係をもち、写真を撮る。彼女は、「左腕を両手で抱きしめ」ていて、男は左腕だけはその女のものだと、今も思っている。

どの短編も、後味のいいものではないかもしれません。しかしいずれの短編にも共通しているのは、「個人的な希望」のような気がします。希望と呼ぶにはあまりに曖昧な「希望」。
それはジャズであったり、写真であったり、受話器から聞こえる音であったり、一度きりのセックスだったりする。しかし、それらは、この小説のなかではちゃんと機能している。
なぜ、「個人的な希望」なのか。それは彼らが、個人として生きようとしているからかもしれない。あるいはまた、自由だから。

村上龍はここ数年、希望についての小説を書き続けています。
それがすべて成功しているわけでは勿論ないですが、村上龍という、ある意味で「寓話的な作家」の書く物語は、常に時代と呼応しあっていると思います。
そういう意味では、一番成功している作家なのかもしれないですが。

また、この短編選集では、女性がおおきな存在感をもっています。どちらかと言えば、男よりも女のほうがさっぱりしているというか、見ていて逞しいです。
それはこの本の帯に書かれた、「女はセンチメンタルな生きものではない。問題は男の方なのだ」と重なります。

最近の村上龍のパワーは、ちょっと下降しつつありますが、この小説にはまだそれが残っていて、初期のファンの方でも、楽しめるんじゃないかと思います。

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あなたとどこで出会ったのかどうしても思い出すことができない。あなたはわたしに近づいてきて、何か印象的なことを言った。だがあなたが具体的に何を言ったのかは思い出せない。わたしを誰かと間違えたような、おぼろげだがそういう記憶もある。
ただわたしは絵はがきを書いてくれる恋人に子供の頃から憧れていたから、あなたと出会えたことがうれしかった。わたしはあなたからの絵はがきを待つために海の傍に住みたいと思った。(略) その他には何もしないし、友人と長電話することもない。

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by 竹永翔一  at 11:03 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

蹴りたい背中/綿矢りさ


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さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体? オオカナダモ? ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。

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第130回芥川賞受賞作。

あまりに有名なこの出だし。すばらしい悪意にみちてますね。「(苦笑)」があるのが、余計に痛々しくてせつない。

『インストール』は正直、途中で読むのを辞めてしまったのですが、この作品はとっても楽しめた。
まず、この文章。感覚に毛穴ってもんがあるなら、そこから汗みたいに流れでてくる言葉が綿矢りさの言葉だろう。

主人公の長谷川初実は、高校に入って友達をひとりも作っていない。「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌」というスタンスの下、単独行動者として学校で肩身のせまい毎日をおくる。クラスにはもう一人の余り者、「にな川」がいて、何となく彼の家に行ったり話したりしている。
友達ではない。でも恋人でもない。

この「友達でも恋人でもない」関係が続くわけですが、おそらくこの作品で重要なポイントのひとつがそれでしょう。
すっごく微妙な関係。恋愛感情みたいなのが湧いたとか、作中では説明されていません。
初実はにな川と理科の実験で同じ班になって、彼がモデルのオリちゃんのファンであることを知るのだが、実は初実は中学のころにそのモデルに会ったことがあった、たまたまではあるが。
にな川はそれを聞き、なぜか「魂も一緒に抜け出ていきそうな、深いため息を」つく。
にな川はこの場面でちょっとした奇行にでます。教科書に線を引きまくったり、ペン先を教科書に押しつけたり、初実をみつめたり。
重要な箇所はここで、彼は「がらんどうの瞳で」初実を見つめていた。初実はそれを、「ちょっと死相出てた。」と形容する。「私を見ているようで見ていない彼の目は、生気がごっそり抜け落ち」たように「完全に停電していた」にな川の瞳。
そう、にな川は初実ではなく、初実の向こう側にいるオリちゃんを見つめていたのだ。
その様子を、「ちょっと死相出てた。」と初実は言ったが、それはたぶん、その瞬間彼は死んでたんじゃないだろうか。向こう側にいるオリちゃんを見つめるために。
遠い彼方をみつめるその姿をこのように描写した綿矢りさはすごい。

個人的に、中学生の初実が無印のカフェでオリちゃんと外人カメラマンに会ったときの場面が印象的でした。「私」は毎朝朝食がわりにそのカフェで試食用のコーンフレークを食べているのだが、ある日偶然オリちゃんと外人カメラマンに遭遇した。
二人は初実に近づき、不躾ともとれる態度でふるまう。この場面の初実は、あきらかに緊張している。でもそんなのおくびにも出さない。むしろ虚勢を張っているかのような態度で、二人の「お酒くさい」大人に接します。オリちゃんは「もののけ姫みたい」な「私」の足を誉める。初実は内心嬉しいのですが、態度にだしません。大人っぽく振る舞おうとして、背伸びしている感があります。
そして、カメラマンはオリちゃんに、コーンフレークを「なんだかエッチな」態勢で食べさせ、彼は初実の口にもそれをもってきます。「私」は、「あんまり食べたくない」が、「しらけた空気が怖い」し、うまくいけば「この人たちの仲間になれるかもしれない」と、オリちゃんのまねをして食べますが、カメラマンの「男の人は、気味悪がっていた」。
これは、カメラマンの男が初実の意図する気持ちをわからないから起こった、決定的なディスコミュニケーションです。さらに、「私」が「あわてて媚びるような照れ笑いを作った」とたん、オリちゃんの「笑顔の温度が低く」なる。ふたりはすっかり「酔いが醒めたという顔をして」、「店を出」た。そう、彼らは大人で、初実は中学生だ。仲間にはなれない。

非常に印象にのこりました。こういう表現の仕方もあるのか、と。

初実はにな川の家に来た二回目に、オリちゃんのアイコラを見つけるのですが、それを見て彼女は、無性ににな川の「背中を蹴りたい」と思う。この描写も非常にすばらしくリアルで、目をみはります。

これは一種の、ゆがんだ性欲なのでしょう。

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彼の背中で人知れず青く内出血している痣を想像すると愛しくって、さらに指で押してみたくなった。乱暴な欲望はとどまらない。

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次に印象に残ったのが、この場面と結末です。

帰ろうとして立ち上がった初実は、「膝から下の力が抜けて、スローモーションのような尻もちをつ」く。
なぜ尻もちをついたのか。

結末、ベランダで寝ているにな川の背中を、蹴ろうとします。しかしにな川に気づかれそうになり、とっさに「ベランダの窓枠」にあたったんじゃないと嘘をつきます。窓枠をみつめるにな川。それから、「私の足」をみる。
気づかない振りをしてそっぽを向いていたら、「はく息が震えた」。

一体、何なのか、考えてみるとすぐわかりました。
初実は興奮していたのです。自分のあらがいがたい欲望に。
「いためつけたい。蹴りたい」背中をもつにな川に。
いずれの場面も、初実の興奮を表していたのでしょう。
結末からは、緊張と激しい何かが伝わってきます。

これらすべてを、綿矢りさのあの「日本語」で描写されたら、たまったもんじゃありません。
積み木を崩すようなその文章からは、「愛しい」よりも、「もっと乱暴な」気持ちがありありと浮かんできます。

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「痛いの好き?」
痛いの好きだったら、きっともう私は蹴らなくなるだろう。だって蹴っている方も蹴られている方も歓んでいるなんて、なんだか不潔だ。
「大っ嫌いだよ。なんでそんなこと聞くの。」

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by 竹永翔一  at 17:58 |  書評 |  comment (4)  |  trackback (2)  |  page top ↑

左の夢/金原ひとみ (すばる11月号)


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明日はいくつ? 毎日、寝る前にそう聞かれて、朝になると俺が言った数だけ炊飯器に入れてあった。あつあつのおにぎりを、いつも家を出る前にリュックに入れて、朝飯に一つ、昼に二つか三つ食べていた。あの頃は昼飯のおにぎり二つとコンビニで買ったカップラーメンの組み合わせが主流だったけど、最近はコンビニのおにぎり二つで済ませることが多い。毎日夕食を作って待っていた彼女はもういない。

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すばる11月号掲載の金原ひとみの短篇、『左の夢』を読んだ。
冒頭を読んでいて、どうもおかしいと思いながら読み進めていると、何が「おかしい」のかわかった。
語り手が「男性」だったのだ。

主人公の「俺」は、三年間つきあった恋人がアパートを去ってから、常に彼女のことが気にかかっている。
朝、起きたら写真の彼女に向かい「おはよ」と言い、出勤時には「行ってきます」と言う。「俺」は工場で働いていて、現場の先輩と仲がいい。昼休み、先輩が昼飯に誘うのだが、最近の「俺」は毎日コンビニのおにぎりばかりである。

語り手の「俺」の意識は、否応なく恋人と自分とのまわりを迷い続けている。金原ひとみの小説の主人公たちは、自らの自意識にとぐろを巻きながらも、その堂々巡りのなかから、なかなか抜けだせない。この主人公も例外ではなく、出て行った恋人のこと、というより、「恋人といた自分」を思い続けているようにみえます。
一言でいえば、「俺」はダメな男です。電子レンジの使い方もわからないし、ひとりになった途端、「何をどうしたら良いのか分からない」。「借りてるサラ金の一番近いATMがどこにあるのかも知らない」というのだ。

「俺」は「工業系の高校を中退して、美容師の見習い」をしていたが、ある日交通事故に遭う。左半身に障害が残るかもしれない、と宣告され、上京して美容師になるために必死でリハビリを頑張る。無事に上京して職につくが、あっさりクビになってしまう。「無職になりスロットばかりやってる内に家賃も光熱費も滞納が続いて、当初は簡単に返せるはずだった借金」が「どんどん非現実的な額に」膨らんでいく。そんな時に、恋人と知りあった。

語り手は「左」に、何らかの執着があるように思えます。この作品では、久々に「リストカット」「自傷行為」がモチーフとして使われているのですが、語り手の「俺」は恋人と別れてから、左手首を切ったりします。
その姿は、辛うじて自分のバランスを保とうとしているようにもみえる。
まるで恋人を失ったことにより、バランスを崩しているように。

作中で「俺」の恋人は実際に姿を現しませんが、結末、ある奇妙なかたちで現れます(もしくは、表れる)。それだけのためにこの小説が書かれたようにも思えるし、単になんの意味もないのかもしれない。

恋人は、語り手のモノローグの中では途中小説家になるのですが、そのことは金原ひとみのデビュー時を示しているようです。
実際、これは私小説風な作風で、それを男性側からアプローチしているみたいだ。

結末ちかくで、「俺」は恋人の残していった化粧品を顔じゅうに塗りたくって、口紅を引き、彼女の匂いを思う場面があるのですが、そこが異常にリアルなのです。語り手は「俺」なのに、まるで三人称のような印象があります。じっと、その光景を見つめているような……

すばらしくグロテスクで、巧い恋愛小説です。
「俺」は結局、振られるのですが、解放されたと思う反面、これからどうしていけばいいか分からない。
これは、上に書いた、ひとりで「何をどうしたら良いのか分からない」と繋がります。作中では、語り手は終始なさけなく描かれているのですが、これは「おにぎり」をめぐるモノローグではより顕著に表れているみたいです。「俺」はたまに、恋人の「明日はいくつ?」という、幻聴をききます。「明日はおにぎりいくつ?」と。これにより、語り手の恋人に対しての拘泥、情けなさをより深く、どうしようもないものとして描くことに成功している。

結末は、たぶん金原ひとみとしては異例な終わり方だろうが、それもまたこの人らしい。
「俺」はあれを読んで、どう思ったのだろうか。

二人の電話での会話が、思い起こされる。

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「もしもし」
「……俺だよ」
「……久しぶり」
「なあ俺さあ、もう駄目になっちまいそうなんだよ」
「……」
「もう駄目になっちまうよお前がいないと駄目なんだよ。お前だって俺がいないと駄目だろ? なあ戻ってきたいんだったらいつでもいいって、言ってるじゃんよ。なあお前さあ、誕生日に何欲しい?」
「今、仕事中なの」
「なあ俺待ってるから。誕生日ケーキ買って待ってるから。────」

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by 竹永翔一  at 00:40 |  書評 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑