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「死ぬ」ことは悲しいのか、あるいは「死」はただの概念なのか


かなり長いあいだブログを放置してしまって、申し訳ありませんでした。
本当にずいぶん更新していなかったので、久しぶりに更新します。

皆さん(そんな人たちがいれば)、「人が死ぬ」ということは、一体全体、かなしむべき事柄なのでしょうか。いや、普通に、いつも俺たちの暮らしている世界では、「死」はかなしむべき事柄で、時に尊いものではあります。
しかし、ここ最近ずっと考えているのですが、「死」は本当に「かなしむべき事柄」なのでしょうか。また、「死」とは実在するものなのでしょうか。
ブログでこんな取り留めのないことを書くなんて、ばからしいような気がするのも事実ですが、でも書かずにはいられません。

「死」をテーマにした小説や映画なんて、腐るほどあります。
小説では、あの『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いに行きます』などを挙げる人が多いような気がします。あるいは、高校生などになると『恋空』とかも、「死」を描いた小説ということになってしまうかもしれない。
俺が今まで、生きてきたなかで「死」をちゃんと(?)描いていると思う小説は、いくつかあります。
舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』も、テーマは愛ですが、恋人の「死」が描かれています。
金原ひとみの『アッシュベイビー』も「死」が重要なキーワードだし、庄司薫の『白鳥の歌なんか聞こえない』もそう。江國香織の『落下する夕方』で描かれていた「死」も印象的でした。
で、思うに、俺がいま挙げた小説と、世間の人たちが思う「死」が描かれている小説というのは、全く断絶されたもの、意味の違うもののような気がします。
「死」とは、大切な人(友人でも、身内でも、恋人でも)が死んでしまうことだけにある概念なのでしょうか。
俺は、はっきりと、「それは違う」と言い切ってみましょう。
人の死ぬことが描かれている小説が、「死」について描かれた小説ではないです。『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いに行きます』は、作中で誰か死ぬけど、でも彼らは本当の意味では死なない。必ず、誰かがその人を覚えていようとする。別にそれ自体はいいのですが、残念ながらこれらの作品には、端から誰も存在していないのです。『世界の~』の主人公のサクも、アキも、小説のなかにちっとも存在していないのです。と、断言してみたのですが、俺は本気です。『世界の~』にも『いま~』にも、誰もリアルな人間なんていません。なぜなら彼らは「死」について何も考えてないから。そもそも作品に「死」なんて描かれていないから。
作中の人間たちは皆、ヒロインの死を悲しむ。悼む。それは悲しむべき(!)事柄だからだ。
いやいや本当かよ、と、誰も待ったをかけない。
それは本当にかなしむべき事柄なのでしょうか。

自殺は、最近流行ってますよね。「流行ってる」なんてちゃらいものじゃないですが、自殺者が急増しています。
自分で自分を殺す彼らは、果たして悼まれるべき存在なのでしょうか。自殺をもう否定できません。そんなこと俺にはできません。
しかし、俺が不思議に思うのは、死んだ当人たちより、残された人たちのことです。彼らは皆こぞって悲しむし、泣く。もう一度会いたいという。会って話がしたい、と。
もちろん普通に正常な感覚だと思うのですが、俺はたまにそういう人たちを、とても気色悪いと思ってしまいます。
「なーんで、皆泣いてるわけ? 誰も笑ったり、誉めたり、しないのか?」なんて思う俺は、あまりにも文学に影響を受けすぎているか。
実際、死を語ろうとした俺がバカでまぬけなのですが、なぜ人はこうも、死を崇高したり、恐れたり、できるのでしょうか。なぜ、「死」なんて存在しない、と言えないのでしょうか。その可能性はゼロなのでしょうか。
俺にはわからない。わからないから書いてる。
文学において「死」は、何か美しいものだったり、脅威だったり、恐怖だったりするけど、小説家たちは果たして「死」を信じているのでしょうか。
「死」とは、何でもいいです。概念としてでも、実在としてでも、哲学としてでも、構いません。
本当にそんなものがこの世にあるのでしょうか。
って、何だか宗教っぽくなってきたような気がします。
俺にいま辛うじて言えるのは、芸術としての「死」と、現実の「死」は繋がってる、としか。
同じではないと思います。ただ、ふたつは絶対に繋がってるはずです。
「死」は語られるべきものなのか。いや、語れないから、芸術があるんでしょうね。芸術が現実とリンクしているものでなくてはならないなら、一概に「死」を語るなんて、不可能なのでしょう。
こんなこと書こうとした俺がバカでした。すみません。

それで、いま唐突にわかったような気がするのですが、「死」と「人間」は元来切り離されているのではないでしょうか。つまり、人間が「生きていること(これはそのまま「死にゆくこと」に置き換えられる)」と、生きている「わたし」は、全く別次元に存在しているのでは…………。
これは全く間違いかもしれません。
正解ではないでしょう。
もう、最初に書こうとしたこととは全く違うことばかり書いてしまってます。
やはり、言葉は難しいです。
言葉があるうちは、何とか生きているのかもしれない。言葉があるうちは、俺たちは少なくとも、存在しているのかもしれない。たとえ「死」が現実になくても。
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by 竹永翔一  at 01:43 |  雑記 |  comment (4)  |  trackback (0)  |  page top ↑
Comments

阿修羅ガール

こんばんは。
ブログを再開しましたね。何か書くことは、いいことだと思います。これは、何も確証がないけれど、なんとなく、いいことだと思います。最近、そういうことを、思いました。何かを語るのは、いいことではないか、と。

死が存在するか、あるいは存在しないか、それを知っている人は、確かにいません。
宗教というのは、「死の意味づけ」です。つまり、死を知っているふりをしています。でも、(なんの宗教であれ)世界中で支持されているのだから、人がいかに死をつかもうとしているかがわかります。
宗教というのは、死じゃなくて、あらゆる物事に意味づけするものではないか、とふと思いました。僕らは、物理的には何の意味もないのにメッカに向かって祈ったり、お賽銭を投げたりするわけです。
僕らはいかに「意味あるもの」を必要としているか、わかる気がします。

芸術家が好んで書くのは死で、あらゆる人間が絶対に表現できないのは死です。死んだ人間は表現できないわけですから、誰も死んだらどうなるか知らないわけです。その姿は滑稽で、痛々しくて、だから『世界の中心で、愛をさけぶ』に腹が立つのだと思います。

舞城王太郎の『阿修羅ガール』で主人公のアイコは(仮にですが)死にます。でも、彼女は死については語りません。語るのは生についてばかりなのです。
その意味で舞城王太郎らしさが存分に発揮された良作なのですが、同時に、「おまえは卑怯だよ。死んでいながら死について語らないなんて」とも言える気がします。

それでは。
by キズキ 2008/02/05 23:30  URL [ 編集 ]

キズキさんへ


コメントありがとうございます。
本当に、ずっと更新していなかったので久しぶりに(笑)

死に関しては、なんか絶望的だと思います。俺はキリスト教も仏教も信じないし、宗教なんかぜんぶ偽善だと思うのですが、それを信じる人は万単位でいるわけですよ。みんな死が怖いから、何かそれに付加価値をつけたがるんだと思います。
たとえば、自分の「生きる価値」とか「生きる意味」とかを問い続ける人は、たぶん人間みんなそうだと思うんですよ。自分を救われたいから、みんなそれを考えるのだろうけど、意味なんてないんですよね、たぶん。でも、意味のないことが「無意味」というのも違う気がして。
だから、金原ひとみの『アッシュベイビー』の中の、「生きる意味なんてない」って言葉が、ちょっと嬉しかったんです。小説の中ででも、そう言ってくれる作家がいてくれて。
本当のところはでも、金原ひとみにもわかんないんだと思います。誰にもわからないから、みんな救われたいと思ったりするのかもしれないですよね。
by 翔一 2008/02/06 09:37  URL [ 編集 ]

小売業計数能力検定

小売業計数能力検定とは、流通・小売企業で働く人を対象に、小売業における計数の基本や販売効率・売上管理に必要な計数能力などを問う検定試験 http://startreck.markjacobsesq.com/
by  2008/11/04 07:06  URL [ 編集 ]

死ねるということ

死は限りある生を照らす光のようなものなんでしょう
死がなければだらだら生き続ける人間は荒廃の一途でしょうね
「後世へつなぐ」というある種の命題が失われてしまう

現状としてあなたは生きている
同時に死もあなたを最終地点であなたを照らし続けている
その死に意味をつけるか否かは結局あなた次第です
どちらにしても善悪はありませんが

今際のとき「まぁまぁだったな」
って思える死を選びたいと私は思いますが



by 通りすがり 2009/01/16 12:51  URL [ 編集 ]
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