2007/12/16
リリイ・シュシュのすべて/岩井俊二監督作品
監督・脚本・原作/岩井俊二
主演/市原隼人 忍成修吾 蒼井優 伊藤歩
現実に救いなど、ない。それは多分間違ってはいないのだと思う。ごく一部の人には、救いのない人だってたくさんいるはずだ。いやもしかしたら、皆そうなのかも。皆救われないのかもしれない。
『リリイ・シュシュのすべて』を何度となく観た。
絶望的だと思った。
初めて観たとき、エンディング・シーンで救われた気がした。だって、あまりに綺麗だったから。
ひとびとは、皆清澄だったから。
でも、改めて観て、思った。絶望的だと。救いなどないと。
「なぜなら僕も、きっと、あなたと同じ、痛みの中にいるから。」
だから俺たちは『呼吸』する。「生きている!」。
それしか生きるということを、実感できないはずだ。誰かがそれを気づかせてくれるかもしれない。この映画のばあい、『リリイ・シュシュ』が。
岩井俊二は、映画、というか映像を使って、徹底的に「美」を追求する監督なのだと思った。もともとはそういう監督だったのだと思う。次第にそれではダメだと思い、『スワロウテイル』を撮ったのだと思いますが、結局は「綺麗」に収束したように思います(勿論、あれもいい映画ですが)。
でも、この映画は違う。明らかに、それまでの「映像作家・岩井俊二」作品のなかでも異質で、特異で、確実に彼の一連の作品(『undo』『PiCNiC』『スワロウテイル』など)の中で、一番だと思います。彼は映像で「美」を追求することによって、確実にある地点に到達したのだと思います。いわば、「美」が岩井俊二作品を支えており、それが持ち味でもあったのですが、この作品はその「美」がとんでもないパワーを発散していて、空気のすきまもない。ドビュッシーが流れる背景に、レイプシーン。夕陽のなかの叫び、カイトの飛ぶ無機感。
作中では、「エーテル」という単語がかなりの頻度で出てきます。「エーテル」とは、かつて物理学の分野で信じられていた世界を満たす物質のこと。
「エーテル」は色でわけられるらしく、赤が「絶望」、青が「希望」。
この作品はさし詰め、「紫」といったところか。
難しい作品だと思うかもしれませんが、この映画は青春映画です。そして、俺がいままで観てきた青春映画の中でも、極上の作品。日本人がこんな映画を造れた(創れた?)だけでも、すごいことだと思います。
主人公は蓮見雄一。蓮見はかつての親友・星野脩介に慢性的にいじめられており、彼の唯一のこころの拠り所は、『リリイ・シュシュ』の歌だった。かつて、星野に教えられたアーティストで、星野は小学校のクラスメイトだった久野陽子にその存在を教えられる。
星野は中学のクラスメイトの津田詩織のエロ動画を撮影し、脅して援助交際させる。津田は次第に蓮見にひかれ、蓮見は久野にひかれる。
そんな中、久野は星野たちのグループにレイプされ、津田は自殺する。蓮見は『リリイ・シュシュ』のライブ会場で、星野と遭遇し、ライブ終演後、星野を刺殺する。
あらすじを説明しようとしたら、だいたいこうなる。しかし無論、あらすじに意味はないです。映画を観ないことには、どれだけこの映画が優れているのかわからない。
サブタイトルとして、『14歳のリアル』が掲げられたこの映画は、つまりは作中のリアルであり、決して俺個人の(14歳のころの俺の)リアルではない。事実俺はこんな経験したことがない(友達にはいますが)。いや、映画を観たことによって、すでに「経験した」のかもしれないが。映画自体が、すでに抱えきれないくらいの「リアル」を持ち、つまりそれは、たぶん、作品中の人物たちが感じているだろう「リアル」です。それだけが、確かなことでもあります。
この映画を観て、「あざとい」と思う人も多いと思います。実際いろんな面において、この映画はあざといです。というか、岩井俊二の作品は(たぶん)すべて「あざとい」です。
それが嫌だ、という人もいるでしょうが、でも、それにしたってすごいことです。俺は、フィクションにこそ他作品にない価値があると思っています。
それは現実よりずっと、忠実で、確かだと。
「死」を描くにしても、いろんな描き方がありますが、この映画は特にその点に関しては秀逸です。
津田が自殺したとき、それは飛び降り自殺だったのですが、飛び降りる場面は撮られていない。そればかりか、その後の蓮見や星野、ほかのクラスメイト達も誰もが(津田のことを好きだった男子生徒でさえ!)、彼女について一切触れません。まるで、最初からそこにいなかったみたいに。
ぞっとします。
「死」は、世界でもっともひどいディスコミュニケーションであり、またコミュニケーションにもなりうるかもしれない。
星野が殺された後もそう。クラスメイト達は話題にもしない。
逆に、ネットの世界(リリイ・シュシュのファンサイト)では、話題になったりする。それは星野がリリイのライブ会場で殺されたこともありますが、なぜ、そうなってしまうのでしょうか。
ネットという匿名の世界で語られる「死」は、いつだって記号でしかないです。いや、岩井俊二の描く世界はいつも、ある種の「記号」ですが。
とにかく、作中人物たちは「死」について語らない。語られるのは(あるいは、語れるのは)、ネットの世界だけです。
ネットに「本当のもの」があるのか知らないけど、少なくともこの映画にはないように見える。
映画内の『リリイ・シュシュ』のファンサイトでは、皆リリイを崇めている。素晴らしい「存在」として扱う。ファンサイトの管理人である蓮見は、そこに来る『青猫』というハンドルネームの人物と心を通わせます。
この『青猫』は実は星野で、リリイのライブ会場にて、蓮見はリリイ・シュシュの「すべて」を知る。そう、星野が『青猫』であると知ってしまった。
唯一現実からかけ離れた存在である『リリイ・シュシュ』に希望を抱いていたのに、『青猫』が星野であったことがわかって、蓮見は結局のところ『リリイ・シュシュ』は架空の存在であることに気づく。
星野が『青猫』だったという現実が、蓮見を突き動かしてしまった。現実と接点をもってしまったから。
「エーテル」は最初、青だった。そしてまっ赤になる。エンディングで、また青になる。それが混ざって、「紫」になった。
俺にとって『リリイ・シュシュのすべて』は、そういう映画です。紫色。
希望なんて絶望と混ざりあってしまう。どちらが勝るでもなく、混ざりあう。
これほど、絶望的なことはない。
それでも、この映画は俺にとって必要な映画、最高の映画です。
岩井俊二は「美」のちからを最大限に活用し、いままで誰も撮れなかった青春を撮った。
蓮見は優しくて臆病だった。星野は大人しい子だったが、豹変した。久野はドビュッシーと『リリイ・シュシュ』が好きで、津田は純粋で粋のいい子だった。
俺も、たぶん、彼らと同じなのだろうと思う。無力で、子供で、だから架空の何かに頼る。救いを求める。
でも、実際のところそんなものは、どこにもないのでした。それでも俺は歌を聴くけれど。誰かを頼るけれど。救いを求めるけれど。
だからこそ、『リリイ・シュシュ』は歌うのだろうけど。
「居場所を探し続けて、人は死んでいくんだわ」
ネットの掲示板に書かれたこの言葉が印象に残っている。
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墜ちる!墜ちる!墜ちる!
永遠のループを、落下し続ける。
だれか!僕を助けて!
誰か!ここから連れ出してくれ!
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語られない死
おもしろい記事だと思ったので、すこし。
死が語られない、という点はおもしろいと思います。
この映画のなかでは大事なことが全部抜けている気がします。
援助交際のシーンもレイプシーンも死も、直接的には撮られていないし、あとになって語られることもないです。
この映画のすごいところは、たぶん蓮見が津田の死について何も言わないところで、惜しいところは久野いじめのリーダの女の子が星野の家庭の事情を語ってしまったところだと思います。
もっとおもしろいところは、リリイ・シュシュについてネット上でしか語られないところです。
限定版の得点映像に、蓮見が津田にリリイについて詳しく教えるシーンがあるのですが、監督は全部カットしちゃってるんです。
蓮見はリリイを比喩的に殺したととれますが、そこと「語られない死」や津田のことをからめて考えるとおもしろいかなあと思いました。
あと、原作では津田じゃなくて久野が死んでるのですが、そこも興味深いです。
どうもどうも。コメントありがとうございます。
そうなんです。大事なこと、普通の映画では語ってしまいがちな出来事を、この映画はひとつもやっていない。岩井俊二はただ、俺たちに「見せている」だけです。もしも語られていたら、この映画は「普通の映画」になっていたと思います。
そういう意味でも、『リリイ・シュシュのすべて』は素晴らしい傑作だと思います。
確かに、神崎(久野をいじめていたリーダー格の女)が星野の家庭の事情を説明してしまったのは、この作品の中では浮いているかもしれませんね。勉強になります(笑)
そう、そうなんですよね。『リリイ・シュシュ』は現実では詳しく語られないんですよね。すべてはネット上の、いわば「架空の世界」でしか語られない。それはたぶん、『リリイ・シュシュ』が一種の神格化された存在としてのアーティストだからで、それはリリイにハマる蓮見が最後、『リリイ・シュシュ』が「架空の存在」であることに気づいた(と、あくまで俺は邪推します)ことに繋がる。
俺はビデオで観たのでそんな特典があるなんて知りませんでした。
でも、観ないほうがいいかもしれないですね。せっかくの傑作が台無しになっちゃうかもしれない(笑)
あくまで全ては、俺が映画を観直したうえでの邪推ですが、そう思いますね。
だから、余計救いようがない(笑)
原作はまったく読んでないので知りませんでした。機会があれば、ぜひ読んでみたいです。
No title
記事のなかで、青猫が星野だと気づいた時点で、現実と虚構がつながってしまった、というのは「なるほど」と思いました。
そういう意味で、蓮見はずっと虚構の世界で生きていて、星野=青猫と気づいて時点で現実にひきずりもどされた、というふうな穿った見方もできるように思えます。現実にひきずりもどされてしまったから、虚構であるリリイともひきはなされてしまった、と。
って、思わず書いちゃいましたけれど、こういう話はやめたほうがいいかもしれませんね。こういう解釈をしちゃうと、かなり安っぽくなっちゃう気がします。
特典のドキュメンタリーは本編より泣けます(笑)。神崎役の女の子がクランクアップで号泣しちゃうところで、こっちまでぐっときて(笑)。
原作は特別読む価値はないのですが、電車のなかで女の先生とCDを聴くシーンはかなり興味深いですよ。
映画だときれいで僕は好きなシーンなんですが、原作だと「おれのCDに汚い手で触るな!」みたいな雰囲気で。
僕はずいぶんギャップを感じて、おもしろかったです。
あくまで俺の穿った見方です(笑)
たぶん全然ちがうと……(笑)まあ、別にいいんですけど、そうだったらかなり絶望的だなあ、と思って。
例えば、ジャニーズ好きの女たちは、この映画でいえばリリイの信者みたいなもんで、あまりにもそれにのめり込んでしまうと、何かあったときにかなり傷つくと思うんです。まあ、ジャニーズ好きの女も一概には言えませんが、やはり信者のような人もたくさんいるので(笑)
確かに、この話はこれ以上したらまずいかもしれませんね。意味のないことでしょう。
特典にはそんな映像がついてるんですか。俺はあの神崎は本気でぶん殴りたかったですけど(笑)
原作はところどころ違うようですね。そのほうが、小説として良いような気もします(笑)
面白いですし。
金融内部監査士
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