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Dragon Ash/HARVEST


Dragon Ashというバンドをご存知だろうか。
何年か前までは、オリコンのチャートの上位に常にいた、世間の言うところ「モンスター・バンド」です。ヴォーカルの降谷建志を中心として96年頃に結成されたのですが、彼らがデビューしたことによって、所謂『J-HIP-HOP』が爆発的に日本に広がりました。
というのもDragon Ashは、ミクスチャー・ロック・バンドで、デビュー時はパンクとかハードコアをやっていたのですが、98年頃にHIP-HOPに進出して大成功を収めた、のですが、俺は当時の彼らをあまり好きではないのです。
やっぱり彼らは純粋なHIP-HOPのアーティストではなかったし、ロックと融合したそれは、観客の耳にひじょうに聴きやすかったのです。
HIP-HOPはあまり聴き易すぎても、ちょっと問題です。そもそもがメッセージ性の強いジャンルだし、極めて「社会的な」音楽だと思います。
しかし、いまの日本人の多くは、HIP-HOPに恋愛を絡めた歌を好むのです。別にそれでもいいのですが、何というか、あまりにも気色悪いのですよ。

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一生一緒にいてくれや
みてくれも才能も
全部含めて

愛を持って俺をみてくれや
いまの俺にとっちゃ
お前が全て

一生一緒にいてくれや
ひねくれや意地っ張りなんかいらない

ちゃんと俺を愛してくれや
俺を信じなさい

いつのまにか本気になった俺は
お前の優しさ 強さに惚れた

お前だけは
手放しちゃいけないと思えた
今は 湧いてくる愛しさに
溺れたい

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三木道三の『Lifetime respect』です。
「どこが問題なの?すっごい良い詞じゃん!!」多くの人はこう言うのでしょうが、はっきり言って気持ち悪いです。
ありえません。
ここで歌われているのは、愛じゃない。「愛のようなもの」です。本来すごく曖昧なものを、まっすぐに歌ってしまうことで、何かが決定的に損なわれているような気がします。
Dragon Ashはさすがにこんな歌詞は書きませんが、でも、「Dragon Ash」というバンドが、日本の音楽に与えた影響は強いのです。強すぎて、それによる弊害も多いのです。
たいしたスキルのないMCというか、グループが大勢現れて、もっと重要なアーティストは隠れてしまってる。
話がかなりずれました。
いまのDragon Ashは、もうHIP-HOPではないです。今は、エレクトロニカだったり、ラテンだったりを行き来しているのですが、俺が紹介するこのアルバムは、ジャンル特定がほとんど不可能なように思えます。
いわば、「音楽的な傑作」です。

はっきり言ってしまえば、『HARVEST』というアルバムは、全く歌詞に意味がありません。いや、少なくともあまり重要なことは書かれていないです。
俺には、いまの彼らの曲について説明できるだけの言葉がない。
ただ言えるのは、リズムが素晴らしいということだけです。聴いていて、自然にからだが動いてしまうような、浮かび上がるような、音が体当たりしてくるような、そんなリズムです。

最後に、Dragon Ashが一昨年発表した『夢で逢えたら』という曲の歌詞を引用します。
彼らにしては珍しくラヴソングです。
そして、メロディーもさることながら、歌詞が素晴らしすぎます。
全然、親しまれるような歌詞ではないし、嘘臭い言葉もありません。きっと、彼らは愛の語り方を知っているのだと思います。
興味のある方は、ぜひ聴いてみてください。そこら辺のラヴソングより100倍いいです。素晴らしい「愛の歌」です。

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たとえば今だって そう残した
匂い零れ出して
辿ればすり合って 夜を越した
憩いの漏れを溶かして

ほどけた この手
手繰り寄せて

凍えた頃ね
爪で書いたんだ…夢で逢えたら

(中略)

束ねた思い
奏でた今宵

この胸吹き抜けた
南風を歌おう
月夜に降りつけた光たちの歌を
白く尚

(中略)

狂えるほどの 星空に毎夜
震える頬の少し そばにいたいよ

願いただ…夢で逢えたら

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by 竹永翔一  at 19:05 |  音楽 |  comment (5)  |  trackback (0)  |  page top ↑

「死ぬ」ことは悲しいのか、あるいは「死」はただの概念なのか


かなり長いあいだブログを放置してしまって、申し訳ありませんでした。
本当にずいぶん更新していなかったので、久しぶりに更新します。

皆さん(そんな人たちがいれば)、「人が死ぬ」ということは、一体全体、かなしむべき事柄なのでしょうか。いや、普通に、いつも俺たちの暮らしている世界では、「死」はかなしむべき事柄で、時に尊いものではあります。
しかし、ここ最近ずっと考えているのですが、「死」は本当に「かなしむべき事柄」なのでしょうか。また、「死」とは実在するものなのでしょうか。
ブログでこんな取り留めのないことを書くなんて、ばからしいような気がするのも事実ですが、でも書かずにはいられません。

「死」をテーマにした小説や映画なんて、腐るほどあります。
小説では、あの『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いに行きます』などを挙げる人が多いような気がします。あるいは、高校生などになると『恋空』とかも、「死」を描いた小説ということになってしまうかもしれない。
俺が今まで、生きてきたなかで「死」をちゃんと(?)描いていると思う小説は、いくつかあります。
舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』も、テーマは愛ですが、恋人の「死」が描かれています。
金原ひとみの『アッシュベイビー』も「死」が重要なキーワードだし、庄司薫の『白鳥の歌なんか聞こえない』もそう。江國香織の『落下する夕方』で描かれていた「死」も印象的でした。
で、思うに、俺がいま挙げた小説と、世間の人たちが思う「死」が描かれている小説というのは、全く断絶されたもの、意味の違うもののような気がします。
「死」とは、大切な人(友人でも、身内でも、恋人でも)が死んでしまうことだけにある概念なのでしょうか。
俺は、はっきりと、「それは違う」と言い切ってみましょう。
人の死ぬことが描かれている小説が、「死」について描かれた小説ではないです。『世界の中心で、愛をさけぶ』や『いま、会いに行きます』は、作中で誰か死ぬけど、でも彼らは本当の意味では死なない。必ず、誰かがその人を覚えていようとする。別にそれ自体はいいのですが、残念ながらこれらの作品には、端から誰も存在していないのです。『世界の~』の主人公のサクも、アキも、小説のなかにちっとも存在していないのです。と、断言してみたのですが、俺は本気です。『世界の~』にも『いま~』にも、誰もリアルな人間なんていません。なぜなら彼らは「死」について何も考えてないから。そもそも作品に「死」なんて描かれていないから。
作中の人間たちは皆、ヒロインの死を悲しむ。悼む。それは悲しむべき(!)事柄だからだ。
いやいや本当かよ、と、誰も待ったをかけない。
それは本当にかなしむべき事柄なのでしょうか。

自殺は、最近流行ってますよね。「流行ってる」なんてちゃらいものじゃないですが、自殺者が急増しています。
自分で自分を殺す彼らは、果たして悼まれるべき存在なのでしょうか。自殺をもう否定できません。そんなこと俺にはできません。
しかし、俺が不思議に思うのは、死んだ当人たちより、残された人たちのことです。彼らは皆こぞって悲しむし、泣く。もう一度会いたいという。会って話がしたい、と。
もちろん普通に正常な感覚だと思うのですが、俺はたまにそういう人たちを、とても気色悪いと思ってしまいます。
「なーんで、皆泣いてるわけ? 誰も笑ったり、誉めたり、しないのか?」なんて思う俺は、あまりにも文学に影響を受けすぎているか。
実際、死を語ろうとした俺がバカでまぬけなのですが、なぜ人はこうも、死を崇高したり、恐れたり、できるのでしょうか。なぜ、「死」なんて存在しない、と言えないのでしょうか。その可能性はゼロなのでしょうか。
俺にはわからない。わからないから書いてる。
文学において「死」は、何か美しいものだったり、脅威だったり、恐怖だったりするけど、小説家たちは果たして「死」を信じているのでしょうか。
「死」とは、何でもいいです。概念としてでも、実在としてでも、哲学としてでも、構いません。
本当にそんなものがこの世にあるのでしょうか。
って、何だか宗教っぽくなってきたような気がします。
俺にいま辛うじて言えるのは、芸術としての「死」と、現実の「死」は繋がってる、としか。
同じではないと思います。ただ、ふたつは絶対に繋がってるはずです。
「死」は語られるべきものなのか。いや、語れないから、芸術があるんでしょうね。芸術が現実とリンクしているものでなくてはならないなら、一概に「死」を語るなんて、不可能なのでしょう。
こんなこと書こうとした俺がバカでした。すみません。

それで、いま唐突にわかったような気がするのですが、「死」と「人間」は元来切り離されているのではないでしょうか。つまり、人間が「生きていること(これはそのまま「死にゆくこと」に置き換えられる)」と、生きている「わたし」は、全く別次元に存在しているのでは…………。
これは全く間違いかもしれません。
正解ではないでしょう。
もう、最初に書こうとしたこととは全く違うことばかり書いてしまってます。
やはり、言葉は難しいです。
言葉があるうちは、何とか生きているのかもしれない。言葉があるうちは、俺たちは少なくとも、存在しているのかもしれない。たとえ「死」が現実になくても。
by 竹永翔一  at 01:43 |  雑記 |  comment (4)  |  trackback (0)  |  page top ↑

リリイ・シュシュのすべて/岩井俊二監督作品


監督・脚本・原作/岩井俊二

主演/市原隼人 忍成修吾 蒼井優 伊藤歩

現実に救いなど、ない。それは多分間違ってはいないのだと思う。ごく一部の人には、救いのない人だってたくさんいるはずだ。いやもしかしたら、皆そうなのかも。皆救われないのかもしれない。
『リリイ・シュシュのすべて』を何度となく観た。
絶望的だと思った。
初めて観たとき、エンディング・シーンで救われた気がした。だって、あまりに綺麗だったから。
ひとびとは、皆清澄だったから。
でも、改めて観て、思った。絶望的だと。救いなどないと。
「なぜなら僕も、きっと、あなたと同じ、痛みの中にいるから。」
だから俺たちは『呼吸』する。「生きている!」。
それしか生きるということを、実感できないはずだ。誰かがそれを気づかせてくれるかもしれない。この映画のばあい、『リリイ・シュシュ』が。

岩井俊二は、映画、というか映像を使って、徹底的に「美」を追求する監督なのだと思った。もともとはそういう監督だったのだと思う。次第にそれではダメだと思い、『スワロウテイル』を撮ったのだと思いますが、結局は「綺麗」に収束したように思います(勿論、あれもいい映画ですが)。
でも、この映画は違う。明らかに、それまでの「映像作家・岩井俊二」作品のなかでも異質で、特異で、確実に彼の一連の作品(『undo』『PiCNiC』『スワロウテイル』など)の中で、一番だと思います。彼は映像で「美」を追求することによって、確実にある地点に到達したのだと思います。いわば、「美」が岩井俊二作品を支えており、それが持ち味でもあったのですが、この作品はその「美」がとんでもないパワーを発散していて、空気のすきまもない。ドビュッシーが流れる背景に、レイプシーン。夕陽のなかの叫び、カイトの飛ぶ無機感。
作中では、「エーテル」という単語がかなりの頻度で出てきます。「エーテル」とは、かつて物理学の分野で信じられていた世界を満たす物質のこと。
「エーテル」は色でわけられるらしく、赤が「絶望」、青が「希望」。
この作品はさし詰め、「紫」といったところか。

難しい作品だと思うかもしれませんが、この映画は青春映画です。そして、俺がいままで観てきた青春映画の中でも、極上の作品。日本人がこんな映画を造れた(創れた?)だけでも、すごいことだと思います。
主人公は蓮見雄一。蓮見はかつての親友・星野脩介に慢性的にいじめられており、彼の唯一のこころの拠り所は、『リリイ・シュシュ』の歌だった。かつて、星野に教えられたアーティストで、星野は小学校のクラスメイトだった久野陽子にその存在を教えられる。
星野は中学のクラスメイトの津田詩織のエロ動画を撮影し、脅して援助交際させる。津田は次第に蓮見にひかれ、蓮見は久野にひかれる。
そんな中、久野は星野たちのグループにレイプされ、津田は自殺する。蓮見は『リリイ・シュシュ』のライブ会場で、星野と遭遇し、ライブ終演後、星野を刺殺する。
あらすじを説明しようとしたら、だいたいこうなる。しかし無論、あらすじに意味はないです。映画を観ないことには、どれだけこの映画が優れているのかわからない。
サブタイトルとして、『14歳のリアル』が掲げられたこの映画は、つまりは作中のリアルであり、決して俺個人の(14歳のころの俺の)リアルではない。事実俺はこんな経験したことがない(友達にはいますが)。いや、映画を観たことによって、すでに「経験した」のかもしれないが。映画自体が、すでに抱えきれないくらいの「リアル」を持ち、つまりそれは、たぶん、作品中の人物たちが感じているだろう「リアル」です。それだけが、確かなことでもあります。

この映画を観て、「あざとい」と思う人も多いと思います。実際いろんな面において、この映画はあざといです。というか、岩井俊二の作品は(たぶん)すべて「あざとい」です。
それが嫌だ、という人もいるでしょうが、でも、それにしたってすごいことです。俺は、フィクションにこそ他作品にない価値があると思っています。
それは現実よりずっと、忠実で、確かだと。
「死」を描くにしても、いろんな描き方がありますが、この映画は特にその点に関しては秀逸です。
津田が自殺したとき、それは飛び降り自殺だったのですが、飛び降りる場面は撮られていない。そればかりか、その後の蓮見や星野、ほかのクラスメイト達も誰もが(津田のことを好きだった男子生徒でさえ!)、彼女について一切触れません。まるで、最初からそこにいなかったみたいに。
ぞっとします。
「死」は、世界でもっともひどいディスコミュニケーションであり、またコミュニケーションにもなりうるかもしれない。
星野が殺された後もそう。クラスメイト達は話題にもしない。
逆に、ネットの世界(リリイ・シュシュのファンサイト)では、話題になったりする。それは星野がリリイのライブ会場で殺されたこともありますが、なぜ、そうなってしまうのでしょうか。
ネットという匿名の世界で語られる「死」は、いつだって記号でしかないです。いや、岩井俊二の描く世界はいつも、ある種の「記号」ですが。
とにかく、作中人物たちは「死」について語らない。語られるのは(あるいは、語れるのは)、ネットの世界だけです。
ネットに「本当のもの」があるのか知らないけど、少なくともこの映画にはないように見える。
映画内の『リリイ・シュシュ』のファンサイトでは、皆リリイを崇めている。素晴らしい「存在」として扱う。ファンサイトの管理人である蓮見は、そこに来る『青猫』というハンドルネームの人物と心を通わせます。
この『青猫』は実は星野で、リリイのライブ会場にて、蓮見はリリイ・シュシュの「すべて」を知る。そう、星野が『青猫』であると知ってしまった。
唯一現実からかけ離れた存在である『リリイ・シュシュ』に希望を抱いていたのに、『青猫』が星野であったことがわかって、蓮見は結局のところ『リリイ・シュシュ』は架空の存在であることに気づく。
星野が『青猫』だったという現実が、蓮見を突き動かしてしまった。現実と接点をもってしまったから。

「エーテル」は最初、青だった。そしてまっ赤になる。エンディングで、また青になる。それが混ざって、「紫」になった。
俺にとって『リリイ・シュシュのすべて』は、そういう映画です。紫色。
希望なんて絶望と混ざりあってしまう。どちらが勝るでもなく、混ざりあう。
これほど、絶望的なことはない。

それでも、この映画は俺にとって必要な映画、最高の映画です。
岩井俊二は「美」のちからを最大限に活用し、いままで誰も撮れなかった青春を撮った。
蓮見は優しくて臆病だった。星野は大人しい子だったが、豹変した。久野はドビュッシーと『リリイ・シュシュ』が好きで、津田は純粋で粋のいい子だった。
俺も、たぶん、彼らと同じなのだろうと思う。無力で、子供で、だから架空の何かに頼る。救いを求める。
でも、実際のところそんなものは、どこにもないのでした。それでも俺は歌を聴くけれど。誰かを頼るけれど。救いを求めるけれど。
だからこそ、『リリイ・シュシュ』は歌うのだろうけど。
「居場所を探し続けて、人は死んでいくんだわ」
ネットの掲示板に書かれたこの言葉が印象に残っている。

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墜ちる!墜ちる!墜ちる!
永遠のループを、落下し続ける。
だれか!僕を助けて!
誰か!ここから連れ出してくれ!

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by 竹永翔一  at 18:10 |  映画 |  comment (6)  |  trackback (0)  |  page top ↑

星へ落ちる/金原ひとみ


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「調子悪いから、今日は寄らないでこのまま帰るね」
そう。ちゃんと休んでね。言いながら、涙がこみ上げてくるのを抑える。背骨の辺りに力を籠めた。帰宅したら私は泣くんだろうけど、それは帰宅してからだ。私は彼の前で取り乱してはいけないし、泣いてもいけないし、一緒にいたいと思ってもいけない。辛いとも、悲しいとも、寂しいとも、愛してるとも、言ってはいけない。重いからだ。

『星へ落ちる』より

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金原ひとみ初の短篇集。
連作形式だという今回のこの作品集は、ひとつの恋愛から始まった三人の絶望がテーマで書かれている。

金原ひとみお得意の、神経症的モノローグもすばらしいですが、五編所収されている短篇がちゃんと時系列どおりにならんでいるため、これ一冊で中編のような気がしないでもない。
『星へ落ちる』
『僕のスープ』
『サンドストーム』
『左の夢』
『虫』
という五編の主人公は、『僕の~』が「僕」で、『左の夢』が「俺」。男性の語り手が二人でてきますが、二人ともかなり女々しいというか、怖い。
というか、この短篇集の話はだいたい怖い。
『虫』は、ひたすらゲームをやり続ける主人公の「私」が、ほとんど可哀相ともとれるくらい病んでいる。最後の一文はすばらしく怖い。

『僕のスープ』の「僕」は、同性愛者で、彼氏がほかの女と浮気しているのを知り、しだいに周りを信じられなくなる。疑心暗鬼になって、どんどんと壊れていくのだが、その過程がかなり生々しくて不気味です。

この短篇集のテイストとしては、『ハイドラ』に近いものを感じます。

特に、一貫して主人公がおなじである「私」が登場する短篇パートは、「私」の前の恋人から電話が毎日かかってきて、それがアクセントになっているし、「私」と前の恋人を対比して見ることもできます。
「私」「僕」を煩わせているのは、いまの「私」の恋人であり、いまの「僕」の同棲相手です。
この恋人の男の存在が、常にこのふたりの感情にまとわりつき、自然と痛々しい方向へと進んでいくのですが、ここもとてもリアルで、ちょっとありそうな雰囲気です。
「私」と「僕」を対比させることもできますし、二人の病み具合を対比させることもできる。つながりが非常に強いと思います。
また、おなじ文章が繰り返し用いられたりするのが、よけいに痛い。

転じて、『左の夢』は以前書評を書いてしまいましたが、こうやって読んでみると、ちゃんと前後の短篇とつながっています。
とにかくこの短篇は、個人的にはラストがすばらしすぎます。
なるほど、と思わず唸りました。

私小説的な風味が強いこの連作短篇集は、一見ただの恋愛小説ですが、それを取り除くと、強烈なエゴイズムがあらわれて、人間の「すがた」を感じます。
金原ひとみは、多視点をもちいて、これをやり遂げたと思います。

でも、金原ひとみは本当はもっと書ける人。
正直もっと短篇があっても良かったのですが、しかし、完成度はきわめて高い短篇集だと思います。
個人的には、『サンドストーム』『左の夢』『虫』が印象に残りました。
今回読んで思ったのは、金原ひとみは案外場面転換がうまいのではないか、ということです。
負のイメージと痛さを感じる短篇集ですが、好きな人は好きだと思います。

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僕は彼を責められない。元々僕たちは恋人じゃなくて、一緒に暮らす事によって互いにメリットがあるからという体裁の上に成り立った関係だ。僕はずっとそういう関係性を維持しようとがんばってきたし、そうする事によって彼を引き留めていられるんだと分かっていた、いや、そうしなければ彼は僕の元を去ってしまうから、そうしてきた。別れてよ、本当はそう泣いて怒りたいのに、絶対にそんな事を言えるはずがないのは、僕のせいだ。─中略─そういう関係で、セックスがなくなった今、僕らはただのルームメイトだ。

『僕のスープ』より

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by 竹永翔一  at 18:27 |  書評 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ここ10年くらいの村上龍について


村上龍。
この名前から、何を連想するだろうか。初期村上龍のファンは、「セックスと暴力とドラッグの作家」というイメージで定着していると思う。
俺もそういうイメージを持っています。

『限りなく透明に近いブルー』で、第75回芥川龍之介賞を受賞し、一躍流行作家となった彼は、その後すばらしい作品を世に出してきました。
『コインロッカー・ベイビーズ』はとんでもない傑作ですし、『69』もそう。『悲しき熱帯』『ニューヨーク・シティ・マラソン』『イビサ』など、隠れた傑作も多いです。
最近では『村上龍映画小説集』『五分後の世界』『ラブ&ポップ─トパーズ2─』なども秀作といっていいと思います。

80年代、村上春樹とともに「W村上」と言われ、二人揃って爆発的な人気を誇りました。今でも、この二人の著作は最低でも10万部ちかく売れています。
春樹さんと龍さんどちらが良いかと聞かれたら、「村上龍だね」と俺は答えるでしょう。
「ただし、90年代前半までのね」そう付け足しますが。
『イン ザ・ミソスープ』以降の村上龍(90年代後半)と村上春樹どちらが良いかと聞かれたら、「村上春樹だね」と答えるでしょう。
「村上龍がだめな訳じゃないけど、現状から言えば、春樹さんのほうが良いよ」と。
もちろんそれ以前の村上春樹もすばらしいですが、どちらか選ばなければならないなら、俺は村上龍です。
しかしいまの彼は、果たして「良い作家」なのでしょうか?

村上龍のファンだと公言してデビューした作家も少なくないはずです。
その最たる存在として、山田詠美がいます。彼女もまた、「女・村上龍」と言われ、作風、過激な発言などで圧倒的人気を得ました。
彼女自身、エッセイでは村上龍を誉めており、「彼となら一発やってもいい」という名言まで残しています。

そんな山田詠美が、つい最近、河野多恵子との対談でこんなことを言っていました。
「私の嫉妬の対象である作家は村上龍さんです。でも、『イン ザ・ミソスープ』以前の彼にですけども。それ以降の彼には、敬意は払うけれども、嫉妬の対象ではないです」
正確ではないですが、こういう事を言っていました。
つまりこれは、最近の村上龍にはあまり魅力がない、少なくとも昔ほどは。という意味じゃないでしょうか。
また、金原ひとみも村上龍のファンであることを公言してデビューした作家です。彼女は、『コインロッカー・ベイビーズ』に衝撃を受けたといいます。新装版『69』では、あとがきも書いています。
村上龍も、『蛇にピアス』が芥川賞をとったとき、もっとも受賞に加担しました。
しかし最近の金原ひとみは、村上龍のことを話題にもしません。

俺個人から言うなれば、最近の村上龍は、ちょっとおかしいと思う。もちろん16歳のガキの言うことですから、俺自身がまちがってる可能性のほうが大きいです。
しかし、今の村上龍には、さして魅力を感じない、もっと言えば「どこがいいの?」と言ってしまうんです。
『イン ザ・ミソスープ』という作品を読めばわかるでしょうが、村上龍には「いい時」と「わるい時」があり、この作品はあきらかに後者です。
まず、描写が説明文のようで、やや説教臭いです。そして、ただ現実の悲惨さをなぞっただけのような風に感じられます。
正直、『コインロッカー・ベイビーズ』や『69』のときにあった興奮が、最近の作品には感じられないのです。
『希望の国のエクソダス』もそうですが、中学生何万人がいっせいに不登校になって企業をたちあげて成功する、という設定は、あまりにも現実味を欠いており、ややライトノベルに近いような気もします。
そして、やたら記号的にすぎる。
記号的というのは、初期の作品にも表れています。
『限りなく透明に近いブルー』がそうですし、『コインロッカー・ベイビーズ』もそうです。
しかし、これらの作品には、今までの日本にはなかった「何か」があるように思うのです。その「何か」が何なのかはわかりませんが。
今の村上龍は、初期と比べたら、あきらかに劣化しているように思います。
そりゃあ作品を書くうえで「良さ」やある種の「瑞々しさ」は失われるのでしょうが、それにしたって、30年も第一線で活躍する作家が、『イン ザ・ミソスープ』のような、あまりにもお粗末な描写をするでしょうか。

本当に残念でなりません。
山田詠美も初期とは大分作風がかわりましたが、それでも彼女は往年の「良さ」をかたちを変えながら維持していると思います。
村上春樹にしたってそうです。

それよりも、高橋源一郎や笙野頼子のように、いまなお進化し続けている作家もいます(売れてないけど)。村上春樹も、ある意味進化し続けているのかもしれません。

ここ最近の村上龍は、作品を何本も掛け持ち連載したり、政治的な発言が多いですね。
政治的な発言は良いとしても、その内容は、ほかの専門家・評論家がすでに指摘していることを言っているだけではないでしょうか。
「失われた十年」にしたってそうでしょう。
社会学者の宮台真司は、村上龍を「記号に狂っている」と批判しています。

村上龍の政治的発言は、もちろん正しいものが多いと思います。
一方で、日本のもつ属性に対して、あまりにも辛辣に過ぎる気もしないでもない。
たしかに俺も村上龍に近い発想があるように思います。俺も「日本的なシステム」は大嫌いです。
それを排除しようという気持ちもわかりますが、いまさらそんな事ができるのか。特に作家という、実はあまり力がない人種が、声高に叫んだとしても、それを日本中にとどろかせるには、遠く及ばないと。
日本は「日本的なシステム」に甘んじてきた国です。そして大人たちの多くは、いまだにそれを信じている。それは子供にも多いかもしれない。
作家だったら、「そこから始めようよ」というスタイルで、文学的処置をとるべきなのに、村上龍はあまりにも直接的すぎます。

正直、いまの作家・村上龍には疑念を感じずにはいられません。
彼のやっていることは間違ったことではないでしょう。しかし、文学者としては、いささか軽すぎるような気がしてなりません。

初期のころのような良さを! とは言いませんが、作家として、やるべきことをする必要があると、無礼にも思ったのでした。

by 竹永翔一  at 22:25 |  雑記 |  comment (5)  |  trackback (0)  |  page top ↑

暗渠の宿/西村賢太



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都電の線路を足ばやに横ぎり、ガード下をぬけたところでもう一度振りむいてみたが、それと気になる人物や車両はなかった。根が小心者にできてるだけ、最後に吐き残した暴言のことで連絡を受けたその店の者が追っかけてきはしまいかとヘンに気にかかったものだが、どうやら杞憂のようであった。それでやっと日常に立ち戻った思いになり、すでに閑散とした駅前からのだらだら坂を地下鉄の入口にむかってのぼりながら、私はしみじみ女が欲しい、と思った。

『けがれなき酒のへど』より

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西村賢太の『暗渠の宿』を読みました。
非常にばかばかしい話が二編、収録されています。「ばかばかしい」というのは、でもこの場合ほめ言葉です。ばかばかしく素晴らしい作品集でした。

うえの引用を読めばわかるとおり、文体がものすごく近代文学の影響をうけています。自分の恋人を「女」「私の女」と言ったり、台詞が「しかし何だぜ……」など、かなり近代文学を意識していることがわかります。
西村賢太は、2004年に『文學界』からデビューしたのですが、今時の新人がこのての文体を使うということは、あきらかに近代文学に傾倒しているんでしょう。
事実、作品中でもその近代文学オタクっぷりが発揮されてます。

主人公はいつも同一人物で、つまりは私小説です。俺はあまり近代文学が好きではないし、私小説もそんなに読んでこなかったつもりですが、西村賢太はすばらしい私小説作家、いや、本の帯で豊崎由美が言っているように「全身私小説家」です。

主人公の「私(=西村賢太)」は、ものすごく情けない男です。恋人はなかなか出来ず、出来ても暴力をふるって暴力をあびせたり、特に食べ物の場面でよくカタストロフが生じます。問題になるのが常に金のことだというのも可笑しいですし、恋人の父親からも借金をしていると、作中では述べられています(どこまで本当か怪しいものですが)。
「私」は、藤澤清造という大正期の作家に傾倒しており、彼の「没後弟子」とまで自称しています。「私」はその藤澤清造の全集をつくろうと資金繰りをしているが、なかなか貯まらない。資金を預けている古本屋の主人に勝手に使われたり、女のために使ったりと、むしろ減っているみたい。
ちなみに西村賢太自身も、藤澤清造の全集を刊行しようと資金繰りをしています。

『けがれなき酒のへど』では、なかなか恋人ができず、風俗で性欲の処理を行っていた「私」が、ある日タイプの風俗嬢に出会い、その彼女に騙されて捨てられるまでの過程を描いてますが、捨てられることが最初からわかるように書かれているところが、近代文学的です。
それでもって、この主人公の情けなさはより顕著になるのがわかって、非常に楽しめます。

『暗渠の宿』では、「私」にやっと恋人ができ、その恋人と同棲するのですが、ある突発的な出来事から彼女に暴力をふるってしまう。それがどんどん加速していく話ですが、最後の一行はすばらしく情けないです。

もう一度言いますが、西村賢太の書く小説はすべて私小説です。しかもほぼ自分のことを正確に書いている作家。
それを踏まえてみても、人間としてここまで最低な奴がいるのかと、やや心配にもなりますが、やはり、可笑しいのです。
情けない男が女を得るための努力話と、情けない男が女を得てからの堕落(?)を描いたこの作品集は、いままで読んだ私小説のなかでもトップクラスの面白さです。

21世紀にもなってこんなことをやっている西村賢太もすばらしいですが、何よりまず、作品の端端から、藤澤清造に対する愛着が垣間見えて、可愛らしくもあるけど、次の瞬間一気に脱力する。
そんな男の話です。

西村賢太はこんな時代錯誤なことをしてまで、なぜ私小説を書くのでしょうか。それは、小説にどっぷりと浸かり、そこから上がれないからなのでしょうか。

でもとにかく、ばかばかしいことこの上ないこの小説は、すばらしい出来なのでした。

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初め、これにも文句は言うまいと努力し、二口、三口と啜り込んでみたが、その食えぬ程ではないにしろ、決して納得のゆくものではない面白くなさは、何から何まで私の言に背いたこの女への怒りの感情に同化し、そこへよせばいいのに女が、「どう?」なぞ、何か褒め言葉を期待するような口調で聞いてきたのがたまらなく癪にさわり、つい反射的に箸をどんぶりの中に放ると、
「どうもこうも、あるもんか」と、言ってしまった。
「え」
「まずい」
「えっ、まずかった?」
「ああ、まずいよ。まず過ぎて、お話にならないね。誰がこんなにくたくたになるまで煮込んでくれと頼んだんだよ。ここは養老院の食堂じゃないんだぜ。おまえはぼくの言うことを何ひとつ聞いてやしないんだな。固めにしてって言ったろうが!」

『暗渠の宿』より

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by 竹永翔一  at 11:29 |  書評 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ポンヌフの恋人/レオス・カラックス監督作品


監督・脚本/レオス・カラックス

主演/ドニ・ラヴァン ジュリエット・ビノシュ


レオス・カラックス監督の、『ポンヌフの恋人』は知っている人も多いかもしれない。フランスの映画監督であるカラックスは、デビュー時「ゴダールの再来」と謳われた監督です。映像と映像にある「溝」が、なんともいえない。
彼のデビュー作『ボーイ・ミーツ・ガール』はすばらしかった。
難解で、せりふが極端に少なく、80年代の映画なのにモノクロなのですが、ものすごく映像が綺麗でした。それに、モノクロにしたことで、却って古さを感じさせず、新鮮な印象を与えていると思いました。『ポンヌフの恋人』も例外ではありません。

この『ポンヌフの恋人』は、カラックスの青春三部作の完結編で、主人公は一貫してドニ・ラヴァンが演じています。彼の野暮ったい表情や演技は、とても演技っぽくなくて、逆にすばらしい。
恋人役のジュリエット・ビノシュも、非常に独特な美しさを放っています。
二作め以降、カラーの作品ばかりですが、古さはちっとも感じませんでした。カラックスは普通の監督とは違い、型にはまった撮り方をしない監督だと思います。
カメラが思いきり手ぶれでぶれているシーンも多く、視点があちこち行ったり来たりをくり返す。なんとなく、岩井俊二を彷彿とさせる撮り方だと思いました。
あらすじやストーリーは、説明しません。優れた小説に解説が不要なのと同様、優れた映画に説明はいりません。
ただ、観てください。
俺たちが、「いま生きている」、ということを思い出させる映画です。

カラックスはこの映画の制作に10年程かかったと言っています。
総制作費14億円のこの作品は、そこら辺のハリウッド映画よりもとてつもなく地味で(本当はちっとも地味じゃない。ある意味、すごく派手です)、しずかで(花火の音や音楽が非常にすばらしい)、狂気的ですが、それもまた、カラックスが「ゴダールの再来」と言われる所以ではないでしょうか。


ただの純愛映画ではない、ただならぬ「生臭さ」を、強く感じさせる映画だ、と思います。
by 竹永翔一  at 00:57 |  映画 |  comment (4)  |  trackback (0)  |  page top ↑

ケータイ小説と文学

先週だったか、NHKの番組「ETV」で、ケータイ小説の特集が組まれていた。
何故いま、ケータイ小説が女子高生にウケているのかを、写真家で随筆家の藤原新也が迫る、といった内容でした。
俺はつくづく悲しい気持ちになりましたが、一方で、ある意味で納得もしました。
ケータイ小説家たちは皆、自分の実体験あるいは想像を、サイト上に綴る、といった方法で作品を公開しています。
人気のある作品は、書籍化され、うまくいけば『恋空』みたいに映画化されます。

ケータイ小説家たちは皆、年齢が若く、十代が圧倒的に多いです。
文学の世界も、いまや十代でデビューする人たちがたくさんいます。

まず、その十代の新人作家の登竜門的な存在として、「文藝賞」があります。
2001年に、綿矢りさが『インストール』で史上最年少17歳でデビューし、その後2003年に羽田圭介が同じく17歳で『黒冷水』で、2005年には三波夏が『平成マシンガンズ』により、なんと史上最年少15歳で、綿矢りさ、羽田圭介の記録を破りデビューしました。
また、「すばる文学賞」からも、2003年に金原ひとみが19歳で、『蛇にピアス』でデビュー。
その内、綿矢りさと金原ひとみは、それぞれ最年少で芥川賞を受賞し、一気に知名度をあげました。

このように、十代でもじゅうぶん、文学賞からデビューできるのに、なぜ「ケータイ小説」なのか。

理由は簡単で、「手っ取り早く手軽に書けて、かつ多くの人に読んでもらえる可能性があるから」です。
確かに、成功すれば利益は大きいでしょう。もちろん必ずしも、ケータイ小説家が読んでもらおうという意識で書いているわけではないようです。
Chacoというケータイ小説家は、最初はそれまでの出来事を振り返るために書いて、出来上がったら削除するつもりだったのだという。しかし、いつのまにかその話が爆発的人気をよび、あとに引けなくなったと言います。

この話からもわかるように、「ケータイ小説を書く」ことは、リスクを負わずにすみます。
お金もかからず、すんなり小説を世に出すことができる。
しかし、残念ながらほとんどのケータイ小説は、個人的にいえば、駄作ばかりです。

実体験を元にした話なら、まだ許せます。しかし、そうじゃない作品は、あまりにお粗末すぎるような気がしてなりません。そもそも実体験を元にした小説も、お粗末すぎる。
『恋空』などその典型です。
こんなことを書くのは、お門違いもいいとこだろうとは思います。しかし、俺はどうしても、いま売れているケータイ小説が許せないのです(この時点で俺はおそらく間違っています)。

サイト上で人気のある作品が書籍化されて売れるのは、当然だと思うのです。
リスクを負わずに、なんの難点も気にせずに本が売れる。
俺は小説家でもないのに、やたらむかつきます。
なぜ、文学賞からデビューした若い作家(少なくとも、ある種の「リスク」を負った人たち)の小説は、女子高生たちに注目されないのでしょうか。
注目されたとしても、ほとんど大人にばかり注目されます。

金原ひとみは、こういう事態についておもしろいことを言っています。
ちょっと引用します。

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私自身、デビュー前から、お金が発生しない形では小説は出したくないと思っていました。自費出版とか、とても流行っていますけれど、それでは意味がないと。そんな事をするくらいだったら、一人で書いて一人で推敲して一人で読んでいたいと思うんです。

『野生時代』9月号より

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これはつまり、リスクを負うことが大事なのだということです。
そして、大概のケータイ小説はハッピーエンドで、結果的に、ある種の「癒やし」をもたらします。俺は本当に、びっくりしてしまいます。
なぜみんな恋人を(あるいは友人を)殺して、でも私は頑張って生きるよ。あなたの分まで精一杯生きるからね。と、なぜそんな結末になってしまうのでしょうか。
なぜ、主人公たちを生かそうとするのでしょうか。
俺には意味が分からない。

金原ひとみはまた、こうも言っています。

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だいたい、なんで小説なんかで癒されなくちゃいけないの

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全くそのとおり。小説だけでなく、映画や音楽でも、「癒されなくちゃいけない」ものばかりが先行しているようです。
ばっかみてぇ。まじでどうかしてる。

小説は、そもそも物語は、だれかを癒すための代物ではない。いや違うかもしれないけど。
「癒やし」がある物語も、すばらしいものがたくさんあるはずです。
たとえば、舞城王太郎という小説家。
彼なんかは、最後の最後でものすごく癒されます(例外はありますが)。それまで暴力的だったり暴走していた話が、急に着地するような感じ。
それでも、俺は彼の小説が好きです。
また、よしもとばななという作家。
俺は彼女の小説は好きではありませんが、うまいなあ、とは思います。少女漫画的な雰囲気なのですが、それをちゃんと「小説」として昇華させている、稀有な作家です。

「癒やし」を目的とした小説があってもいいです。しかし、いかんせんケータイ小説は、あまりにも取って付けたような、ご都合主義的な「癒やし」ばかりじゃねえかよ。
舞城王太郎やよしもとばななが優れているのは、その物語にあった、うまい着地点=「癒やし」を捻りだしているからで、とても自然です。
読んでいて、少なくとも、癒されます。癒やしの種類はちがえども。

ケータイ小説は、そのような着地点をいっさいかえりみず、こうすればウケるな、とか、こういう結末だったら良い感じだな、というただの「定番」にはまっている。もちろん例外も少なからずあるでしょう。ケータイ小説で「文学」をやろうとしている人たちもいるはずです。
でも、そういう人は全く注目されない。

俺は「文学」が偉いとか、ケータイ小説よりも上だ、と言いたいわけではありません。
ケータイ小説というひとつの「手段」も、否定はしません。
ただ、あまりにも、型にはまりすぎているということが言いたいだけです。
たしかにケータイ小説は、そこら辺の小説家の描く十代より、確固たる空気があると思います。
でも、それだけじゃん。

もし、文学が描いてきた「どうしようもないこと」や「救いのないもの」が、ケータイ小説に不要ならば、俺はケータイ小説を断絶し続けます。

最後に、この記事を読まれて不快になられた方がいらっしゃったら、謝ります。
すみません。

これは今、現時点での俺の気持ちにすぎませんから、できればスルーしていただきたいところです。
by 竹永翔一  at 00:36 |  書評 |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑

阿修羅ガール/舞城王太郎


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少なくともまだ、私はアイムプリティファッキンファーフロムOKって感じではない。
私はとりあえず顔射も口の中でドピュドピュゴクンも中出しもプリズンエンジェルも避けられたのだ。
うん、OK。
これまでの人生の中で一番最高の時って訳じゃないし正直辛いけど、でも大丈夫。私はまだまだやってける。
好きじゃない男の人とセックスしちゃうアホな女の子なんて、私だけじゃないはずだし、それどころかこの世にはそんな人が私の想像しているよりももっとずっとたくさんいるはずなのだ。そして、そんな女の子達の中には顔射やら口の中で~やら中出しやらプリズンエンジェルやらの目に遭ってる人たちもたくさんいるんだろう。いや、プリズンエンジェルはなかなかないか。ってそんなことはどうでもよくて、とにかく、私はヤな目に遭ったけれども本当の最悪の目に遭った訳じゃないのだ。
私はまだOK。
こんなところでへこんでたら、実際プリズンエンジェルの人に申し訳ない。

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第16回三島由紀夫賞受賞作。

うえの引用を読んで、なんだこれは! と思ったそこのお前! そうお前よお前。最初に言っておくが、この小説はすばらしい、愛と存在と少女の物語なのだ。舞城王太郎はけっして嫌がらせであのような文章を書いたわけではなくて、ただ女子高生の語りをリアルに近づけるために用いたにすぎない。
実際この語りはよく出来ていると思います。少なくとも、女子高生のしゃべり口調に近いです。
そう、すべては舞城王太郎の狙いにすぎない。

第一部、第二部、第三部からなるこの長編小説は、今まで俺たちが呼びならわしてきた「文学」とは一味も二味もちがいます。
舞城王太郎は、今まで他の作家が置いていった技術を捨て、完全に独自の小説を打ちだしてしまった、稀少な小説家である。

主人公のアイコは、好きでも何でもない佐野とやってしまい、後悔する。
しかも冒頭からいきなりその意を表明し、あまつさえ、アイコにこう言わせている。

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減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
返せ。
とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうものじゃなくて取り返すもんだし、そもそも、別に好きじゃない相手とやるのはやっぱりどんな形であってもどんなふうであっても間違いなんだろう。

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ふつう、小説で主人公にこんなことは言わせないと思います。物語が進むにつれて、その意思が示されるのであって、いきなりこんなふうに反省するように描かれた小説は、たぶん初めて読んだ。
舞城王太郎は、いわばそのような小説家である。
「文学」がタブーとしてきたことを平気で冒し、かつそれを成功させた、唯一の作家でもある。
もちろん他の作家(特に年配作家)には、彼を認めないとしている人たちもたくさんいます。しかし、そんな奴らは、何にも読めていない。俺たち一般人が何にもわかっていないから、何にもしないから、わざわざ作家である舞城が俺たちのもとに歩み寄ってきているのです。そんな文学は、今までの日本にはなかった。
アイコは陽治に恋している。知られたくないことを知られて、「バーカバーカ陽治死ね死ねって気分と、もう何でなの陽治?」って気分になるし、「やべー泣きそうだ。泣きかけだ。半泣きだ。ううう、目が熱い」なんてことにもなるし、つまりは「普通の女子高生」なのだ。
舞城王太郎作品に登場するひとびとは、皆ふつうだ。ふつうだからこそ悩むし悲しむし恋するし、人を愛する。
そんなことが、飽きないように、ずらーっと描かれている。「死ね」を連発するあたりは、金原ひとみ作品にも通じるような気もします。
街では「アルマゲドン」が起こったりしている。子供たちが反乱をおこす。
第二部ではへんな森が出てきて、まったく意味がわからない。第三部で、すべての謎がわかる。
全部説明してしまっているのだ。これは何々のメタファで、これはこれの伏線なんですよ、と、アイコを介してさらっと説明してしまう。
文学のタブーを、舞城王太郎は冒している。しかし、それが成功している。ちゃんと「文学」になっている。
すごい。としか言えない。
何がなんだかわからないけどとにかく面白いし切ないしいとおしいのだ。
そう、舞城王太郎はご丁寧にも、俺たちに愛を説いてくださり、そのうえそれをエンターテイメント性の高い話を絡ませて、物語として、純文学として昇華させることに成功している。最後にはすべてを説明してくれる。
それは、ある意味侮辱されていると取れるかもしれない。
説明しなくちゃ解ってもらえない。読んでもらえない。舞城はそう思っているかもしれない。
だとしたら、それは悲しいことだが、それでも俺はすごいと思う。

舞城王太郎は、文章もすばらしく巧いです。
読点が少なくて、読みにくいと思うかもしれないけれど、それは計算された読みにくさなのです。
それにあのスピード。
他の作家には絶対に真似できない。

これを、およびこの作家を認めなかった宮本輝や石原慎太郎は結局、何にも読めていなかったのでしょう。
でも、舞城はあきらかに「新しいこと」をやろうとしている。小説という芸術を壊そうとしている。

詳細なあらすじも経過も説明しません。読んでみてください。
舞城王太郎が、やさしく、朗らかに説明してくれます。

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他人の神様パクんな。
と思ったけど、そもそも宗教なんてパクりばっかなんだった。宗教心そのものもパクりだ。なんか心に穴開いた奴らがあ~やべ~何かに夢中になりて~ってきょろきょろまわり見て、何かよくわかんないけど一生懸命空やら十字架やら偶像やら拝んでる奴らを見つけてあ、あれ、なんか良さげ~とか思って真似すんのが結局宗教の根本。布教ってのはそういうぼさっとしてるわりに欲求不満の図々しいバカを見つけてこれをパクって真似てみたらなんとなく死ぬまで間が持ちますよって教えてあげること。まあそんなふうにパクりでも真似事でも何でも、人の役に立ってたり、少なくとも人に迷惑かけてなかったらなんでもいいけど、猫とか犬とか子供とか殺して、その言い訳に、人からパクった宗教とか主張とかイデオロギーとか使う図々しいバカは死ね。
つーわけでグルグル魔神とか名乗ってる奴も死ね。

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by 竹永翔一  at 15:50 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

溺レる/川上弘美


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「モウリさん何から逃げてるの」逃げはじめのころに聞いたことがあった。モウリさんは首を少しかしげて、
「まあ、いろんなものからね」と答えたのだった。「中ではとりわけ、リフジンなものから逃げてるということでしょうかねえ」
「リフジンなものですか」ぽかんと口を開けてモウリさんを仰ぎ見ると、モウリさんは照れたように目を細め、何回か頷いた。
「リフジンなものからはね、逃げなければいけませんよ」
「はあ」
「コマキさんは何から逃げてるんですか」

「溺レる」より

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第11回伊藤整文学賞、第39回女流文学賞受賞作。

この本を読んだのは、去年ですが、いまだ印象に残っています。川上弘美はひらがなと漢字とカタカナの使い方が半端じゃなくうまいですね。
表題作をふくめた全八編からなる短篇集です。

『センセイの鞄』を読んだときも思いましたが、川上弘美の小説の人物たちはいつも何かを食べている。
「さやさや」の主人公と男はむやみにしゃこを食べ、「百年」の主人公は寿司屋のおやじが困ってしまうほどシンコばかり食べる。食べる。食べつづける。後者の場合は心中まえのやけ食いとも言えますが。しかし何か動機があって食べているわけではないらしい。楽しんでいるとも思えないし、ただ黙々とシンコならシンコにのめりこむ。シンコを食べつづけることで、それ以外のことを忘れられるわけだろうか。
つまりは、逃げるために食べる。
この短篇集の男女は、逃げている者たちが多い。しかも、「カケオチ」とか「ミチユキ」とかみたいに色っぽいものではない。「無名」の男女のように死後500年たっても逃げ続けている奴らがいると思えば、今から逃げだそうとする奴らもいる。いろいろだ。
逃げるとは、はたして何からか。それは世間からだ。そこから、彼らはどこまで行けるのか。
それだけだと、ありきたりなつまらない小説だと思うでしょう。

「さやさや」の男女はしゃこを食い終わったあと、「人家もなくなり電信柱も稀になった」夜道を、とぼとぼ行く。
「七面鳥が」の男女は、オクラとめざしとホルモン焼きかなにかでいっぱい呑んで、店の外に出て歩く。その場所は「夜が、暗い。こんなにも暗い土地だったろうか」。
とりあえず、暗い場所に行く。しかしまだこれからだ。行きずりの不動産屋でみかけた「四畳半トイレ・歩五分・新築・一万五千」のアパートやら、10分おきにぐらぐら揺れる線路沿いの部屋やら、さらに向こうには高速道路の横転事故でオシャカになったり、日本海の自殺名所からのとびおり自殺で一抹の最期がある。
逃亡のはて、死がある。
暗いが、男女はそれなりに楽しくやっているかもしれない。
世間の責任や義務から逃亡していて、暇がありあまっている。だから、真っ昼間からそれ一間しかない安アパートの日当たりのいい六畳間で「溺レる」。「アイヨクに溺レる」。
まあ、溺レるのは食べるのと同じような、そういうものなので、あまり良いもんじゃないけれど。
しかしある瞬間に、パッと明かりが射したりする。
ただの明かりではない。世間の裏側にいて初めてみることができる、普通ではない、ちがう明かりである。
彼らはもう、帰ることができないらしい。

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「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」
「帰れないかな」
「帰れないなぼくは」
「それじゃ、帰らなければいい」
「君は帰るの」
「帰らない」
モウリさんといつまでも一緒に逃げるの。
その言葉は言わないで、モウリさんに身を寄せた。モウリさんは小学生みたいになって泣いていた。

「溺レる」より

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もう帰ることの出来ない場所にいるのだ。この短篇集の男女は子供みたいである。大人になることから、逃げたい。そう感じているようにみえる。
それから、男に誘われて女は逃げる。
きれいな女ではない。つまらない女とだ。ある女は「おおかたの人から、あんたと居るのはつまらない、と言われた」り、別の女は、男が部屋に帰っても「部屋の中の電気はついておらず、畳にじっと座ったり寝そべったりしたまま、本を読むわけでもなく仕事をするわけでもなくものを食べるわけでもなく、いちにち茫然と過ごして」いるらしい。

ちょっと、内田百間を思いだす。なんでだかわからないけれど。

彼女たちは皆、男とともに「溺レ」ていく。つまらない女と一緒にいると、帰れなくなるらしい。
幸運なことに、これらは小説の中の出来事であり、またあるいは、小説そのものが出来事でもある。
逃げることは帰る場所をうしなうことなのでしょうか。
それかいっそ、「アイヨクに溺レ」たほうがいいのでしょうか。
それもまた、この小説のなかの彼らの人生です。

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僕は虫が食えなくてさ。トキコさん、虫はどう。トキコさん、七面鳥飼うの、やめろよ。飼うなら文鳥がいいよ。トキコさん、また酒飲みたくなってきたな。トキコさん、僕は眠たくなってきた、もう帰ろう。もう帰って、眠ろう。うん、うん、とわたしは頷いた。足は鉛のように重く、わたしもハシバさんも歩いているのにほとんど進まない。とりとめもなく、わたしたちはどこかに向かって歩いてゆく。おそろしい、おそろしい、と思いながら、どこやらに向かって、歩いてゆく。

「七面鳥が」より

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by 竹永翔一  at 14:21 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

PiCNiC/岩井俊二監督作品


監督・脚本/岩井俊二

主演/Chara 浅野忠信 橋爪こういち


岩井俊二監督の『PiCNiC』を観ました。同監督の映画を観るのは、『花とアリス』『リリイ・シュシュのすべて』に続いて三回めです。いやはや、何と言っていいのか、やばかった、としか言えない。何がやばかったかは、ここでは言えない。観てほしい。意味が分からないというかもしれませんが、それでも観るべき映画だと思います。
勿論、強要はしませんが。

岩井俊二は天才です。作家として小説も何作か出したりしているらしいですが、少なくとも映画監督としては天才的に巧いです。

まず、その映像。
冒頭、老人らしき人物が道路に薔薇をいっぽんいっぽん置いていくシーンから始まる。その薔薇を車が踏みつけ、精神病院らしき施設に入っていくシーンへとかわる。
このシーンも、いろんな意味ですごいなあ、と思います。
(たぶん)主人公であるココは、ふたごの妹を殺して、この施設に収容されることになった。彼女はそこで、ツムジとサトルという青年と出会い、世界の滅亡をみにいくために、塀の外には出られないので塀のうえを歩いて、ピクニックに出かける。
概要を説明したらこんな感じでしょうか。たったこれだけの映画なのですけど、何なんだろうこの悲しみは。
この映画から印象にのこったシーンを選ぼうとすると、もう数えきれません。それくらい、この映画は「映像」として優れています。
ココが塀のうえを走ったりする場面でさえも素敵です。教会の牧師との出会い。世界の滅亡をみにいくことを決めたシーン。サトルの死ぬ場面。雨の場面。そして最後の場面。
何なんだろ、この美しさは。美しいだけじゃなくて、映像の端々から奇妙なものが垂れ流されているようです。
ツムジは自分の殺した小学校の担任の幻覚に毎晩悩まされており、その担任が出てくるシーンは秀逸である。すばらしくグロテスクで、気持ち悪い。
その後ろの部屋で、牢越しに自慰にふけるサトルの姿も印象的です。
それから、雨のシーン。
ツムジとココが何かを話しているのですが、雨のせいでよく聞きとれない。でも、そんなのは問題じゃないんです。
台詞が聞こえなくても、その映像だけで、もういいんです。
ツムジのよこで雨をあびるココと、幻覚に苦しむツムジ。その映像のなんと、残酷なこと。
俺は不思議に思うのですが、いまの日本の映画やドラマは、「お約束ごと」に囚われすぎているような気がします。登場人物の台詞はちゃんと聞き取りやすくし、話の展開をわかりやすくし、俳優にはキメの展開を用意する。それは、別にいらないと言うわけではありません。否定はしたくないです。
でも、もう飽きました。つまらないし、うんざりする。辟易する。まだ小説を読んでた方がましです。
岩井俊二は、それらお約束ごとに囚われず、かといって無視もせず、うまく使いこなしている監督だと思います。

つぎに、色彩。
ココの着る服。患者たちの着る服。施設の暗さ。空の色。木々の鮮やかさ。教会の神秘的な雰囲気。
どれを取っても素晴らしいです。
特に結末の、太陽の夕陽とカラスの羽が舞う場面は、映像と色彩が融合し、圧倒的な美しさと悲しさに支えられている。
ジャン=リュック・ゴダール監督も、このような撮り方をしていると聞きました。
これら色彩の綺麗さと、曖昧さが、この作品のひとつの見せ場でもあります。
俺はいままで、こんな映画を観たことはなかった。一時間ちょっとの映画なのに、それなのに、この悲しみ。
映像や色彩に関しては、狙いすぎと言われても仕方ないでしょう。しかし、それでいいのです。物語の展開や台詞に気を使いすぎて、逆に陳腐化された映画より、はるかに感動的です。
映像だけで人を引きつけられるのだと、初めて実感しました。

この映画にストーリーはさほど重要ではないように思います。そりゃあ「塀のうえを歩く」という設定はすばらしいですが、でも基本的に、この映画にあるストーリーはそれだけです。
それなのに、物語。
どうしてたかが60分ちょっとの映画で、これだけ人を引きつけ、感動させ、絶望にたたき落とせるのでしょうか。悔しいほどうまい。
岩井俊二の作品は、その映像や色彩や音楽の美しさゆえに、希望があるように見えます(特に『リリイ・シュシュのすべて』などは)。しかし、本当はたぶん違う。
本当は、そこはかとなく絶望的なのだろうと思います。
映画のストーリー的な問題ではありません。
それら絶望や悲しみを、ここまでシュールに、ここまで美しく撮影できる岩井俊二の技量に、俺は何度でも感動する。
もう十年くらい前の映画ですが、古さは感じません。
いまでも、この映画の悲しくて哀しくて愛しい映像が映えています。

いまそんなことができる監督は、岩井俊二と、青山慎治くらいしか思い浮かびません。
彼らはいまの映像業界で画期的な(「画期的」というのは、本当はおかしすぎるのに)、まっとうなやり方で映画を撮る、稀少なアーティストだと思います。
芸術とはつまり、「約束ごと」をつくらないことなのではないでしょうか。

by 竹永翔一  at 10:42 |  映画 |  comment (3)  |  trackback (0)  |  page top ↑

アッシュベイビー/金原ひとみ


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恋する肉体同士に中途半端な距離は、クソだ。血が噴き、傷をえぐる関係が欲しい。つまり愛する人よ、私を殺せ!

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芥川賞受賞第一作。

金原ひとみの第2作。読んで、好きという人はあまりいないとは思います。しかし、この作品は傑作です。

主人公の「アヤ」は、キャバクラ嬢で、男性を魅了するだけの容姿をもっている。彼女は大学時代の同級生の「ホクト」とルームシェアをしており、アヤはホクトがなぜ自分に性的な興味を抱かないのか不思議に思うのですが、実はホクトは、赤ん坊にしか性欲を抱けない幼児性愛者(ペドフィリア)だった。
アヤは子供が嫌いであり、ホクトは子供にしか性欲を抱けない。

アヤの子供嫌いは、読んでいて疑問を覚えるほど凄まじい。冒頭部分から、いきなりその頭角を現します。

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前を歩いてるガキがチラッとこちらを振り返り、いぶかしげに私を見た。中指を立てたけど、奴にはその中指が何を示すものなのか理解出来なかったらしい。

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またアヤは、「ヤリマン」であり、合コンで知りあった「モコ」という女の子とも関係をもつ。この放蕩っぷりは素晴らしいです。アヤは見境なく、やりたいと思った相手とやってしまう。何も考えないし、あとくされなく事を済ませようとしますが、このモコというキャラクターが後半、アヤを煩わせます。
ある日アヤの働く店に、ホクトの会社の同僚である「村野さん」がやってくる。「こんなに完璧なフォルムの手は初めて見た、というくらい」美しい指をもつ村野さんに、アヤは惹かれていく。
そんなとき、ホクトがどこからか赤ん坊を誘拐してきて、それを性欲の対象とします。アヤはその赤ん坊の存在に苛つく。

アヤはこの後、自慰をしながらなぜか自分で自分の太ももを果物ナイフで突き刺します。その傷がまさしく、男性に欲されるべき陰部であるかのように。

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きぇえー。私は叫んで昨日オレンジを食べた時に使った果物ナイフをつかんで左の内腿に突き立てた。私の肉体が反乱を反乱を起こした。(中略)まあ、いいや。どうせ私はなにやったって間抜けなんだから。死ねやクソ、私はそう言うと果物ナイフを引き抜いた。勢い良く飛び出した血を顔面にくらって、私は面食らった。血を吐く傷口なんて、マンコみたいだ。嗚呼、マンコ誕生。

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アヤはマンコを傷に見立てます。そう、マンコとは「傷」であり、痛みなのです。

『アッシュベイビー』を読んで、下手くそだと思った人は、あまりにも無邪気。実は、この小説は周到に考えられて作られた傑作なのです。

たとえば、この作品には三ページに一回の割合で性描写が描かれていますが、そのすべての性描写には、何かがごっそり抜け落ちています。何かが決定的に欠けているのです。
それは、アヤと村野さんの初めてのセックス描写が伏線となっています。
二人のセックスは、基本的に「ずれ」が生じている。

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村野さんはやっと服を脱いで、私の顔の横に手をついて挿入した。充分に濡らされたマンコはずぶずぶとチンコを受け入れ、「すっげーユルい」とか思われてるかも、なんて不安がよぎった。もっとシマリが良くて、チンコが抜けないくらいのマンコだったらいいのに。脚をカエル型に持ち上げながら、村野さんはまた傷を指で押さえた。血に塗れても、その手は卑屈なほどに、優美な微笑みをたたえていた。ああ、痛い。気持ちいい。痛い痛い。気持ちいい。けど、痛い。やっぱ痛い。すごく痛い。ああ、痛い。痛い。よく見ると村野さんは親指を傷に食い込ませていた。一センチほど、傷口を割って親指が入っていた。私の天井が、崩壊を始めた。ああ、このまま私をえぐり殺して。

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ここでのアヤは確かに感じてる、痛みを。でも、村野さんは違う。「痛くない」。それどころか気持ちいいのかも分からない。身体的な快楽と満足が分離していて、アヤは満足はするが、村野さんはたぶん違う。
これが一つの伏線だとするなら、非常に巧いと思う。
また、モコの存在も重要である。それから赤ん坊の存在も。

ホクトは赤ん坊を性欲の対象にして満足しているが、赤ん坊はたぶん違うし、むしろ嫌がっている。アヤはモコとの二度めのセックスに、拒否反応を起すけど、「それでも彼女に恥をかかせてはいけない」と思い、我慢する。これらは、ひとつの「ずれ」で、一方は満たされ、一方は違う。

村野さんは一切の感情を殺して、アヤにも淡白な態度をとり続ける。セックスしても近づかないし、だから、アヤは「好きです」という言葉に頼り続ける。
その言葉は、そのまま自分を満たそうとし、同時に村野さんに向けられています。まるでその言葉によって、村野さんと結びつこうとするように。
そしてアヤは、村野さんに殺してほしいと思うようになる。

一方でホクトは、相変わらず赤ん坊にチンコをおしつけたりしている。アヤは、「きっとホクトはものすごく楽なんだろうと思」う。
「私のように、相手の反応を気にする事もないし、相手が嫌がっても泣くだけだから、口を押さえれば見て見ぬ振りが出来る。」と。

果ては動物虐待まで出てくるこの小説には、それをはぎ取ってみると、今まで見たこともない「純愛」が姿をあらわす。
終盤でアヤと入籍までした村野さんは、やっぱり心を開いてくれない。アヤが入院しても見舞いに来ないし、退院したアヤが村野さんの家に行っても、村野さんはいつも通り、淡白である。
そして結末、アヤは突然消滅してしまったかのように、その独白を終える。

こんな純愛、今まで読んだこともない。Amazonのレビューでは、この作品に対し、「気持ち悪い」「芥川賞作家の文章じゃない」「下手くそ」「金原ひとみの人間性を疑う」など、とってもおかしな言いがかりをつけられました。
しかし、そういう人たちは、何にも読めなかったのでしょうか。本当に?
『世界の中心で、愛をさけぶ』や『恋空』なんかで泣いてる暇があるなら、『アッシュベイビー』を読んで純愛の概念をぶっ壊してほしい。
「ただきれいなだけじゃない純愛もある」んだと知ってほしいし、金原ひとみはもっと正当な評価をされるべきです。

村上龍の言葉を借りるなら、「歪んでいるが、とても美しい」小説でした。

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三日目に、ナツコが教えたらしく、モコが見舞いに来た。(中略)
「アヤに、傍にいてほしいの」
傍にいて欲しい、という気持ちは私にも何となくわかった。私だって今、村野さんにどれだけ触れたいか、どれだけ看病して欲しいか。どれだけ隣にいて欲しいか。どれだけ殺して欲しいか。
誰にこの気持ちがわかるだろうか。

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by 竹永翔一  at 15:22 |  書評 |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑

おすすめの作家、アーンド、絶対読まなくていい作家

一日にこんな更新しちゃって……(笑)更新最近してなかったですし。
この記事では、おすすめの作家ひとり、個人的に嫌い、あるいは苦手な作家を。


平野啓一郎

この人はおすすめ。「三島由紀夫の再来」と謳われた(それは褒めすぎでしょうがね)作家です。初期の作品は三島から影響をうけた古臭い文体が特徴的。最近ではもっぱら実験的な作風ですが。好き嫌い激しいみたいなので、注意が必要かと。
『日蝕』『高瀬川』『顔のない裸体たち』『あなたが、いなかった、あなた』など。


保坂和志

この人もまた、なーんにも起こらない作品ばかり書く作家。なんとなくノスタルジックで、映像的な作風が特徴ですかね。
『プレーンソング』『カンバセイション・ピース』『小説の自由』『もうひとつの季節』などを。


ここから嫌い、あるいは苦手な作家をご紹介。ファンの方いたらすみません。


辻仁成

この人は本当に、大っ嫌いなんですよね(笑)○んだら?ってくらい嫌い。まず文章が気持ち悪い。なに時代とかの問題じゃなく、単に恥ずかしい比喩の連続と失笑を買う恋愛ばかり書きすぎ。最初に江國香織と、次に韓国の女性作家と、最近また江國香織とコラボレーションして小説を出すという、コバンザメみたいな作家。つーかなぜ江國香織はこんな男の小説を誉めるの? コラボすんの? と、まあ江國ファンとしてもいらない人。だいたいもう消えかけてるし。『冷静と情熱のあいだ』は江國、辻どちらの小説も読まなくてよし。

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by 竹永翔一  at 22:40 |  雑記 |  comment (1)  |  trackback (0)  |  page top ↑